正月の二日、三日と言えば恒例の箱根駅伝である。途中で外出の用が重なってしまったので、今年は往路も復路も最後まで観ることはできなかった。結果は青山学院大学の非の打ち所のない1区からの完全優勝だった。駅伝は好きで正月は毎年いつもコタツの前でテレビに齧り付いている。自分にとって恒例行事なので、今年は最後まで観ることができないことに自身がもっと残念がると思っていた。だが、われながら案外そうでもなかった。まったく観ることができなかったなら、確かに相当残念がっただろうけれども。

 実は、スタートシーンを観ることができたので、内心で半ば納得したのだと思っている。駅伝はあのスタートシーンだ。あそこに籠もるものに一番インパクトを感じる。往路も復路もスタートの前後の、あの鋭角な時間帯が一番観がいがある。あれは伝わる。選手の緊張はもちろん伝わるが、それだけではない。一瞬に掛ける思いというか、念を感じるのだと思っている。泣いても笑っても、今日この一瞬しかない。その瞬間を掴めるのだろうか?走る者にはもちろん、観る者にもその思いが押し迫ってくる。

 あれほどの思いで何かの始まりを待つことはそうはない。生涯に数えるほどだろう。場合によってはそんなシーンに出会わない人生もあるかもしれない。確かに濃いが、その分とても輪郭がはっきりしている。そこには音は消えている気がする。耳を澄ましていても音は聞こえない。というか声が出せないのだと思う。何もないが全てが在るような気になるような。蒟蒻問答のようではあるが、捉えきれないのでそのように言うほかない。そういう一瞬である。

 一瞬にあまりにすべてが詰まっている感じは、例の中国の故事“一炊の夢”を思い出させる。野心を持ちながら自身の農夫の身の上を嘆いている青年が、国王にまでなり栄耀栄華を極め、天寿を全うして他界した、ここのところでなんと青年は眼が覚め、これが粥がまだ炊けないまどろみの間の夢だったと分かるという話。元々この話は人の世の栄枯盛衰の儚さをメッセージしているものだが、その儚さよりも、一瞬にあまりに膨大な凝縮がある驚きの方に私は面白さを感じる。

 一日一生と言う。日々の一日をさながら一生と思って、常に最期だと思い、時を愛おしがって生活する様を一日一生と言うのだろう。一瞬にすべてがあるように、一日に一生がある。朝、起き抜けにこの思いが沸き立つようなら随分違う。箱根のランナーがスタートラインに立つような濃密な朝は、意識し過ぎると重いのかもしれないが、しかし、事実として明日があるかどうか、今日一日が終わってみないことには本当は分からない。だから事実は、常に一日一生である。ふと正月はこの言葉を唱えてみたが、案外しっくりした。齢の加減もあるのだろう。今日一日は一生である。(了)  文責;島田真樹