今日は成人の日。全国の市町村で、新成人を祝う式典が行われる。日本では二十歳(はたち)になれば、誰でも成人と認められる。しかし、古くは単に年令ではなく、いわば“自力で食っていけるようになった”と周囲が認めれば、その時成人になれたようである。薪を何キロだか1日で集め、それを何キロだか売りさばけたら成人、というような基準があったそうだ。つまり、親掛かりでなくなる、自力で生活できる力を得ることが成人の条件だったわけである。今で言えば“社会人になる”というのが往時の成人の意味に近いようだ。ところが、現代の日本では、二十歳で社会人になっている若者はむしろ少数派である。

 二十歳になれば一律に成人と定められたのは、どうやら明治の徴兵制の施行と関係があるのだそうだ。当時男子は二十歳になれば全員徴兵検査を受け、兵隊になることが義務だった。国を守る者は成人たる資格がある、というわけだろう。兵隊は大きく見て社会的存在であり、だから、兵役に就くこともまた社会人になることと言えそうだ。同時にまた、社会人になることは、兵隊になることでもあったのだろう。というのは、たとえば、当時の教育目標は、立派な軍人を育てる教育であればことが足りたんだろうから。ある意味、明確な教育目標になっていた。

 ところが、戦後は、新憲法により徴兵制はなくなった。二十歳になっても兵隊になる必要はなくなったのだ。ではあるが、大雑把に言って、法律の上で成人の定義は必要であるため、そこから、引き続き二十歳を成人としたようである。もっとも、戦後すぐは、庶民の子弟の進学率は今とは比較にならないほど低かったわけで、中学を出て集団就職をする世代もだいぶ続くから、二十歳では自力で食っている若者も現代よりはかなりいたはずだ。つまり、社会人として納税者になっている者もそこそこ居たんだろう。その頃であれば、成人について、社会人の自覚が条件になることに、現実が追いついていたのかも知れない。

 さて、現代だ。若者は、二十歳ではまだ学生である者が圧倒的に多い。この時代における二十歳の成人の意味は実に曖昧だ。まず、端的に大人なのに親掛かりである。何かこう、今の新成人はペンギンの雛鳥のようだ。あれは、成鳥になるちょっと前に、羽が完全に生え揃っていない時分、雛なのになりは親達より大きく見える時期がある。餌も大量に食べるようで、親鳥はひがな一日餌取りに追われている。思えば思うほどよく似ているではないか。毎年これを思い出す時、ちょっと苦笑を禁じ得ない。

 成人の意味が曖昧であると、教育目標も実に曖昧になりやすい。上記の、立派な兵隊を作ればよい時代とは反対の状況が生じるわけだ。実際に曖昧だと感じる。ならば、やはり原点に返るほかないのだろうと思う。“他人に迷惑をかけず、自力でしっかり生きて行ける力”を育むことが、教育の目標だと思う以外ない。これとて“一流大学から一流企業へ”といった成功の図式が崩れてきている。ある意味、この点は乱世になってきつつあるのだとも思う。だとすると、本当に今必要なのは、“乱世を生き抜く力”ではないか。このことをより明確に意識することが、教育の道にいる者に必要なことのように思える。(了)