生徒に指導するというと、まずイメージは叱る場面が思い浮かぶかもしれない。自分が生徒だった頃が思い出されて、そういえば、あの時あれで怒られた、それで叱責されたと、いくつかのシーンが浮かんでくるかもしれない。先生になって、指導として難しいのは、どちらかというとではあるが、褒める指導より、叱る指導の方が難しいと感じる。ここで叱らなきゃと感じる場面で、ズバッといけるかというと、そうも行かない時がある。しかし、そこで行っておかないと、実は後ではもう叱るチャンスは取り戻せない。それもわかっているのだが。げにげに、その場で叱るのが大事と言われる理由もよくわかる。

 ではなぜ叱れないのか?これについては、意気地がないとか、柄ではないということを平気で言う人がいるが、しかし、いくらなんでも“それを言ったらおしまい”ではないかと思う。どういう柄でも性格でも、叱るときは叱らなくてはならない。それはそうだ。ただ、その時に、生徒に嫌われたくないという思いが顔を覗かすことはある。このことの割り切りはなかなか難しい。叱る方が実際は好かれることもあるのだが・・・。叱る場面をそのような迷いで逃すことは本当になかなかなくならない。

 日頃からちょっとしたことでも注意するようにしてみたことがある。すると、意外な効果だったが、それ以前よりは、ここぞの場面で叱れるようになっていた。日頃のやり取りがないのに、大事なときだけガツンと行くというのは、そう都合よく行かないのだとわかった。有名な落語の『小言幸兵衛』のような、いつも、なにかにつけうるさいけれども、それが笑い話に繋がるような、そういうスタンスで生徒と接することで、自分なりには改善した気がしていた。

 しかしそれでも、これは本物ではない、とも感じていた。それでも、叱れないときは叱れないことがあったからだ。小言ならぬ小型の幸兵衛になったつもりで、細かいことを日頃言うようにしてから、嫌われるのでは?という迷いは減っていたのだけれども、それでも、尚、叱れないときがあるわけだった。『そんなことは、人としてどうなんだ?』と生徒に投げ掛けてみたときに、瞬間遅れくらいで、その同じ言葉が自分に返ってくるのが普通だろうと思う。叱るときというのはそうだ。実は、その自分に返ってくる言葉に負けてしまいそうに思うとき、叱るに叱れなくなっていた気がしている。『生徒にしたり顔で叱っているが、ならば、お前は言うほどの者なんだな?』こんな言葉を添えて、自分が生徒に投げた言葉が自分に返ってくる。これはきつい。

 言霊という。もちろん“ことだま”だ。日本人の原点にはこの発想があった。言葉には不思議な力が宿るという捉え方だ。叱る言葉には、はっきりこの不思議な力が宿るのだと思っている。やっぱり一種の言霊だ。この言霊を、そしてその力を自分が背負えるかどうか?強烈に悩むことがある。それが、叱るに叱れない自分の正体だった。言葉に出したら、本当にそれを自分が背負わなければならない。背負う覚悟が試される。(了)