平成25年9月16日(月) Serendipityの話

 『算数なんかやったって将来何の役にも立たない。』勉強嫌いの子供が親にこんな口答えをするシーンがドラマであったような気がする。よくありがちな台詞だ。『学校の勉強なんか社会に出てから何の役にも立たない』と言ってしまう大人も時々いる。これらを聞いたとき一面の真理をついている気がするのか、『でもな、・・・』で始める言葉は飲み込まれそうになる。一瞬で気を取り直して、『それはそうだけれどもな・・・』となんとか切り返し始める大人もいる。世の中に出てみて、確かに三平方の定理があのとき自分を救ってくれた、なんて経験はまずあり得ない。あるとするとナンセンス漫画の世界くらいだろう。

 『部活なんかやったって大学受験に不利になるだけ』というのも時々聞く話だ。確かに全国大会で結果を残すくらいでないとスポーツ推薦で進学を決めるのは難しい。それはごく一部の生徒だけに開かれた狭き門ではある。スポーツ推薦は可能性が低いので、部活をやりすぎると志望校の受験には失敗するばかりだから、部活などやるものではない、と大人で力説する人もいる。そして子供にもそう思う者が出てくる。少々皮肉ではあるが、そう力説した大人その人が、『既存の大学を出たくらいで新しい時代に通用すると思ったら大間違いだ』などと言ったりする。生徒の身になると、やりたいことを我慢してまで勉強して入った大学が、出ても意味ないと言われるようなもので、後の祭りをどうしてくれる?そう抗議したいのもやまやまだろう。

 Serendipityという英語。【セレンディピティ】と発音する。元々の語感をうまく伝えるそのものずばりの日本語訳がない。『思いがけない幸運に巡り合う能力』であるとか『偶然の発見を幸運に変える力』とか、もっと単刀直入に『掘り出し物を探す力』など、ざっとこれくらいの語意がネットで出てくる。自分では『何かを真剣に求めている中で、その第一の目的にプラスして、思いもかけず幸運を手に入れること、またはその手に入れる能力』とこの言葉を理解することにしている。例えば科学の大発見のエピソードの中でこのSerendipityが出くることがある。ノーベル賞創始者のノーベルは、ニトログリセリンが珪藻土に吸収されることを偶然発見してダイナマイトを発明したと言われる、ノーベルにとってこの珪藻土の登場がSerendipityというわけだ。もちろんすべての人がダイナマイトを発見できたわけではないだろう。ノーベルだからこそ、この偶然をゆるがせにしなかったのかもしれない。この言葉に“幸運を手に入れる能力”というニュアンスがあるのはこのあたりの鋭敏さのことを示すからだろう。

 こういってはなんだが、学生時代の教科の学習の意義は、それぞれ広く言われている。例えば数学は論理の訓練だとかいうのがそれだ。世の中に出てもロジックを操れるかがものを言う、ビジネス成功の要件だ、などと言われる。それは確かにそうだが、数学の問題が解けたときはひどくうれしく、あるいは『よくできたな』と数学担当からの一言が忘れられなかったとか、ビジネスで成功していなくとも、それらの思いにこそ自分が救われ、そして育まれ、最後の最後は自分だって捨てたものではない、と心のどこかで思える今があるとすれば、それは思いがけない幸福を自身が拾ったということにほかならない。それも正面の目標があればこそ、しかし、必ずしもそれに手が届かなくとも、思いもかけない幸福を手に入れることがある。Serendipityこそ教育の本当の成果なのかもしれない。(了)