2015年12月

敢えて茨の道を選ぶ話

 年末はテレビで格闘技の実況中継が多くなる。なぜだろう?TV局で他にやることが思い浮かばないということなのか?少しはそんな事情もあるかも知れない。勝手な想像だが、年の瀬になると“生き残った感”を誰もが感じるからではないかと自分は思っている。適者生存の自然の摂理に、なんとか今年1年は適うことができた。そういう命への意識がいつもより暮れは深まるからではないか。人と人が命がけで激しく闘争する様をこの時期人々が見たくなるというよりも、そういうものを見てよい時だ、そういう暗黙の了解がなんとなくできているように感じる。

 昨日のボクシングの世界タイトルマッチは、その命のせめぎ合いを感じる試合だった。以前にもこのコラムで取り上げたことのある八重樫東選手の試合のことである。1年半前に取り上げた時は、当時対戦相手が逃げてマッチングができないと言われていた、軽量級最強と謳われるローマン・ゴンザレスの挑戦を受けて立った時だった。試合は惜しくも敗れはしたものの、最後までこの最強挑戦者から逃げることなく、あわやのシーンを作る激闘を演じ抜いた潔い勇者の姿に感動した記憶が今も残っている。その後、空位のとなった八重樫選手は昨年の大晦日、階級を下げて3階級制覇を目指しタイトル戦に臨んだが、相手のボディーブロー一発でマットに沈んでしまった。ボクシングではボディーを打たれて倒れることは屈辱と言われている。

 この屈辱の敗戦で、32歳という年令も考え八重樫選手は一時引退を考えたと言う。ボクシングというスポーツはきわめて厳しい条件下のスポーツだ。ボクシングジム関係者からは階級を変えて再起しろという提案があった。しかし、八重樫選手はこのガタガタにされたライト・フライ級という階級に拘ったわけだ。敢えて茨の道を選ぶ。最強挑戦者から逃げなかった八重樫はやはり八重樫だ。昨日の試合には期すものがあっただろう。

 試合は、メキシコの強打のチャンピオン、ハビエル・メンドサ選手との激しい打ち合いに終始した。両者すぐに顔面が腫れ上がり、メンドサはまぶたが切れ出血し、八重樫は腫れ上がって眼が塞がれそうになっていた。徐々に八重樫の優勢が際立ってゆく。観衆は期待感で寡占状態になる。最終ラウンドの終了ゴングが鳴って、テレビ桟敷からも八重樫の勝利は確信できた。判定の結果発表を、リングロープに前のめりにもたれながら、頭を下げて耳をそばだてていた八重樫が“・・新チャンピオン・・”とアナウンスされて両手を挙げて天を向いて喜ぶ姿にはインパクトがあった。

 試合後、『強い相手と闘うことがボクサーの喜びだし、仕事だし、お金を払って観に来てくださるファンに応えることだと思っています。』と八重樫選手は言っていた。大したことをあっさり言いのけてくれる。手強い相手は避けたいのが人情だ。このストイックさ。さらに別なところで『・・練習に依存しないで自分の体に向き合う・・』と試合前に練習の虫として鳴らした八重樫が言っている。安心のためだけの無駄な練習をしないということだ。クレバーな知的なボクサーである点が、この日の勝利を掴ませたと思えた。そして、家族が居るから闘えるとも言う。『去年の大晦日、負けてしまって大晦日が誕生日の奥さんにベルトをプレゼントできなかった。今年は2日早いけどプレゼントできます。』と勝利後、リングに上がった夫人にベルトを手渡した。見せてくれるわな。

 ただ、忘れてならないのは、相手が強いチャンピオンだったこと。メンドサこそ、最後まで逃げなかった。前に出続けた。いくらパンチを浴びても怯まず出て行き、最後まで倒れなかった。彼もフェアプレーの勇者だ。『・・魂の闘いができ満足している・・』これが試合後のメンドサの談話だそうだ。このような二人が命を掛けて闘ったわけだ。昨日の試合は胸に刻まれる試合になるに決まっていた。
 敢えて困難な道を選ぶ。闘志の火を燃やし続けながら。たとえ命が掛かっても。年末、格闘技の興行が多くなるのは、その理由がわかる。(了) 文責;島田真樹

 

アレンジの話

 音楽のことはまったく詳しくないし、取り立てて趣味と言うほどでもないが、あまりジャンルを問わず好んでいる曲はある。気に入った曲を何度も繰り返し聴いて嬉しがるタイプで、家人などは、私があまりに同じ曲を繰り返すので呆れることがある。この性分はその他のことにも言え、例えば靴などは気に入ったらずっと同じのを履いている。食べ物もそうで、あまり飽きるということがない。意に沿わないものを食べるのはもちろん心外だが、好んでいる食べ物なら毎日でかまわない。

自分で楽器を奏でることはまったく駄目だ。それでも小学校の頃のたて笛は好きだったので、休みの日に家でも吹いて過ごすようなところがあったが、他の楽器は定着しなかった。大学に入るために上京した時に、何を思ったか衝動的に百貨店の楽器売り場でオカリナを買ったことがある。多分、子供時分のたて笛を吹き転がしていた感覚が根っこにあったからだろう。その日は、確か百貨店で同時に刻みたばこ用のパイプも買い込んだはずだ。オカリナとパイプ。この2つが下宿の部屋で埃をかぶったまましばらく置き去りになっていた。今思うと、やっぱりちょっと変な大学1年生であったと思える。

 今は、昔観ていたドラマの主題歌を聴いている。ノスタルジーということにはなる。後ろ向きではないか?と少しは思うのだが、音楽くらいは後ろ向きに聴いてもよいだろう。色々往時を想い出せるのがいいし、当時の自分の心性が回復される気もする。変わり果てたと思っていたものが、残っていたことに驚くような感覚が時々ある。もうしばらくは飽きもせず、これらドラマの主題歌群を聴き続けることにする。

 さすがに繰り返し聴いていて気がついたこともある。ここがこの曲のサビだなぁとか、なぜ、ここのところがサビらしくなっているのか?素人が生意気に考えたりしている。ここ最近は編曲をするアレンジャーの腕みたいなものを手繰り寄せるような聴き方になることが多い。ある曲の歌詞が1番から3番まで進む。1番はギターのソロ伴奏で静かに、2番に入るとベースとパーカッションが加わりさらに少し速くなり、3番に入ろうとする時に弦楽器と管楽器がピークに引っ張り上げるように加わってくる。やっぱりサビだなぁ、ここが!そんなことを思って一人悦に入っているのである。
 ただ、この弦と管のアレンジこそは、生徒にとっての講師の存在理由だと思ったりもする。そして、それは部下にとっての上司の存在理由でもあるのかなぁ?そんなことも思ってみたりしている。(了)
文責;島田真樹

歴史が生きる話

 フランスの地方選挙の結果を報道で読んで記事に眼が釘付けになった。遠い国のしかも地方の選挙ではあるが、そうか、これがフランス国民の民意なのか、と強く印象に残ったわけだった。フランスの地方選挙は投票が2回ある。1回目は言わば予選で、2回目が決勝本選といった仕組みであるようだ。1回目で10%未満の得票しかない政党はそこで敗退が確定し、2回目の本選には精鋭だけが進出することになっている。先週の6日、その第1回目の投票があって、この時、極右と言われる政党が大々的な勝利宣言を行っていた。11月13日の同時多発テロの影響により、移民の徹底排除を唱える極右に支持がきわめて厚く集ったのだという解説がなされていた。

 フランスはこれで戦争態勢にまっしぐらになってしまうのだろうか?先週のこの極右勝利の報道を聞いて、本当のところどうなのだろう?とは思っていた。その第1回目に続く13日の第2回目投票だったわけである。第1回目より非常に投票率が上がったそうだ。つまり、先週の結果に『これは一大事!』と感じたフランス人がたくさん出たということなのだろう。開票の結果、件の極右政党はすべての地域圏で勝利を逸っすることとなったようである。全敗だそうだ。

 極右の一党独裁体制となると、まずドイツのヒットラーがすぐに思い浮かぶ。ヒットラーのナチスによって蹂躙された国の一つがフランスだった。また、一方でヒットラーは理想的憲法と言われたワイマール憲法下、選挙を通じて正統に政権を奪取したのであった。フランス国民はやはり歴史に学んでいると感じざるを得ない。それゆえに、投票を通じて“NO”を示したのが今回の2回目の投票結果なのだろう。

 やはりフランスは、あのジャーナリストのレリスさんが住む国なのだと思ったわけだ。フェイスブックに彼が書き記した『・・世界中の軍隊よりも強い・・』というのは本当だった。武力での解決を煽る集団を、今回フランス国民は確かに寄せ付けなかったわけだから。このことは真に記憶に留めておきたいと思う。翻ってわが国の現在の状況はどうなのだろう?世界が環視する中で、フランス国民は極右の一党独裁を水際で阻止したわけなのだが・・。ただ国がどうのと言う前に、日本国民の一人である私に“世界の軍隊よりも強い”と言える確信があるのか?師走、寒風吹きすさぶの観あり。(了) 文責;島田真樹
 

弱さ比べの話

 トルコ空軍が、ロシア空軍機をシリア、トルコ国境付近で撃墜するという事件が起きてしまった。戦争になるのではないか?と世界に緊張が走った。学生の頃、世界史で露土戦争という帝政ロシアとオスマントルコとの間の戦争について習った覚えがある。今のトルコはオスマントルコではないし、ロシアも140年ほど前の帝政ロシアではない。しかし、歴史は繰りかえされるとも言う。人類の最終戦争の導火線になるのではないか?というような声まで今回出ていた。

 基本的には国境紛争の様相である。多分そうなるだろうと誰もが予測した通り、真っ向からこの件に対する主張が双方で対立している。トルコ側は、ロシア空軍機がトルコ国境を侵犯し、トルコ空軍の警告に従わなかったので撃墜したと発表しているが、ロシアは真反対にロシア軍機による領空侵犯は一切ないと断固としてトルコの主張を犯罪行為と突っぱねている。どちらが正しいのか?こうなると実際にはあまり大きな意味を為さないのかもしれない。なぜなら何がなんでも自国は正しいと言わざるを得ないようだからである。国家の威信というものは、時に厄介である。

 両者とも、互いに悪だと認定されるのはまっぴらであるのはまちがいない。『われを悪と言うなかれ』、『言ったらただじゃおかないぞ』、『取り消せ』、『いや、そちらこそ取り消せ』。これが繰り返されているのだろう。どこにでもある諍いとまったく変わらない図ではある。ただ、このような形で、互いにもの言う相互の主張の応酬であればあってもよいし、それは許容されてよい。しかし、手を出してしまうと話は変わる。国家間のそれは戦争となる。個人が決闘で片をつけるなどというのは、まさにただの短気であって、男気などと言うべきではない。まして、国家間においてをや。これは強さ比べではけしてない。それはただの弱さ比べでしかない。

 実際には、トルコはロシア産天然ガスの輸入をエネルギー供給の柱としている現状がある。エネルギー供給が絶たれることは、その深刻な影響が国民生活に直結する重大事となる。つまり、トルコもロシアも平時は相身互いの間柄と言えるわけだ。政治がその両国の関係を損なえば、互いに大きな痛みを負うことになる。それがわかっていて、尚、戦闘機を互いに接近させ、交錯させる判断を下すなら、そこに真の指導者はいない。けれども、今は、幸い事態はそうなってはいない。だからまだ間に合う可能性はある。(了)  文責;島田真樹

 
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