“動かしてはならない数字”が動かされたという点では、先だって、横浜の傾きマンションのくい打ちデータの偽装問題が浮上したばかりだ。ここのところ、この手のニュースが確かに多い。国土交通省の評価基準に適合させるため、免震ゴムのデータ改ざんをした業者もあった。日本だけではない、ディーゼルの排ガス規制を潜り抜けるために不正ソフトを使ってデータ改ざんを行っていた海外の超大手自動車会社があった。このくらいあると、この手の改ざんはまるでありふれたことのように思えてくる。そのくらい続いている。
もちろんであるが、これらの改ざんは一人現場だけが行ったことではない。経営判断がそこになかったというのは嘘だろう。むしろ現場は会社命令と自らの良心の狭間で苦しんだ末に、しぶしぶであるとか、泣く泣くといった姿で改ざんに手を染めたというケースがほとんどなのではないだろうか。それが実態なのだろう。つまり、本当の悪は何なのか?こういった事件ではそこをよく見なくてはならないと思う。
前2回では、教育界で“動かしてはならない数字”を動かすことがあるとすると、このようなケースではないかと、出願数など入試関連のデータを取り上げてみた。進学には一般的に数字が必要である。そして、当然ではあるが、それら数字は動かしてはならない数字だ。それらが動く時にはよほどの力が働いていると考えるべきだ。あってはならないことを起こし得る力であるから小さいわけはない。例えばそれはどのような力なのか?
少しを転じるが、教育界の数字と言えば偏差値という数字がある。偏差値の高い、低いが受験生が集るか否かに相当影響することは周知のことだ。自分の学校の偏差値を上げようという目標を掲げたとすると、それは明らかに経営目標の範疇に属する事柄である。偏差値を上げることは、まちがっても教育の目標とはなり得ない。つまり現場の目標ではない。すると、偏差値を上げることを至上命題と謳う経営が教育現場を動かそうとすると、どういうことが起きるのか?
例えば、より成績のよい受験生を入学させたいと目論むことはまちがいない。ならば外の優秀層に学内の定員を空ける必要が出る。そしてその空け方というのがきわめて問題だ。まさかの策に、まさか本当に打って出たらどうなる?現場にいて、生徒と保護者の顔がすぐに思い浮かぶところにいる教員は、その動きを知ってどのくらい当惑するか、また、苦悶に身悶えるか、これは想像以上だ。命令に背けば法人では生きていけないだろう。しかし、命令につき従うだけなら教員として生きていけないだろう。こういう究極の地点に、教員は追い込まれる。
つくづく思うところだが、そこに追い込んだ者こそが本当の悪である。これに手を出した瞬間に少なくとも教育人ではなくなっている。すなわち生徒の前に立つ資格は失っているということだ。そして、もう一つ。このような者は教員たちの前に立つ資格もない。どの面提げて教員たちの前に立てるというのか?立っているなら、むしろそれは不思議と言うべきである。(了) 文責;島田真樹