2015年10月

動かしてはならない数字の話(3)

 “動かしてはならない数字”が動かされたという点では、先だって、横浜の傾きマンションのくい打ちデータの偽装問題が浮上したばかりだ。ここのところ、この手のニュースが確かに多い。国土交通省の評価基準に適合させるため、免震ゴムのデータ改ざんをした業者もあった。日本だけではない、ディーゼルの排ガス規制を潜り抜けるために不正ソフトを使ってデータ改ざんを行っていた海外の超大手自動車会社があった。このくらいあると、この手の改ざんはまるでありふれたことのように思えてくる。そのくらい続いている。

 もちろんであるが、これらの改ざんは一人現場だけが行ったことではない。経営判断がそこになかったというのは嘘だろう。むしろ現場は会社命令と自らの良心の狭間で苦しんだ末に、しぶしぶであるとか、泣く泣くといった姿で改ざんに手を染めたというケースがほとんどなのではないだろうか。それが実態なのだろう。つまり、本当の悪は何なのか?こういった事件ではそこをよく見なくてはならないと思う。

 前2回では、教育界で“動かしてはならない数字”を動かすことがあるとすると、このようなケースではないかと、出願数など入試関連のデータを取り上げてみた。進学には一般的に数字が必要である。そして、当然ではあるが、それら数字は動かしてはならない数字だ。それらが動く時にはよほどの力が働いていると考えるべきだ。あってはならないことを起こし得る力であるから小さいわけはない。例えばそれはどのような力なのか?

 少しを転じるが、教育界の数字と言えば偏差値という数字がある。偏差値の高い、低いが受験生が集るか否かに相当影響することは周知のことだ。自分の学校の偏差値を上げようという目標を掲げたとすると、それは明らかに経営目標の範疇に属する事柄である。偏差値を上げることは、まちがっても教育の目標とはなり得ない。つまり現場の目標ではない。すると、偏差値を上げることを至上命題と謳う経営が教育現場を動かそうとすると、どういうことが起きるのか?

 例えば、より成績のよい受験生を入学させたいと目論むことはまちがいない。ならば外の優秀層に学内の定員を空ける必要が出る。そしてその空け方というのがきわめて問題だ。まさかの策に、まさか本当に打って出たらどうなる?現場にいて、生徒と保護者の顔がすぐに思い浮かぶところにいる教員は、その動きを知ってどのくらい当惑するか、また、苦悶に身悶えるか、これは想像以上だ。命令に背けば法人では生きていけないだろう。しかし、命令につき従うだけなら教員として生きていけないだろう。こういう究極の地点に、教員は追い込まれる。

 つくづく思うところだが、そこに追い込んだ者こそが本当の悪である。これに手を出した瞬間に少なくとも教育人ではなくなっている。すなわち生徒の前に立つ資格は失っているということだ。そして、もう一つ。このような者は教員たちの前に立つ資格もない。どの面提げて教員たちの前に立てるというのか?立っているなら、むしろそれは不思議と言うべきである。(了) 文責;島田真樹

動かしてはならない数字の話 (2)

 ルールは、なにか行う前に定めてある必要がある。事後、終わった後から、とある側が勝手にペナルティを課すなどしてはならないわけだ。このことについて、法学では有名な『罪刑法定主義』がある。誰かのある行為を処罰する時は、あらかじめそのことを法律で定めておかなければならないという考え方のことである。つまりルールがなければ罰することはできないということ。この原理から派生して『刑罰不遡及の原則』というのもある。行われた当時、犯罪として規定されていなかった行為を、後から法律を作って遡って処罰してはならないというものだ。小難しく不遡及の原則などというと分かりにくいのか、一般にこれを『事後法の禁止』と言っている。ルールとして規定が無かったその時はセーフで、その後の法律ではアウトということも生じてくるということ。たとえば建物の耐震基準などはよく知られている事例だ。

 生徒の指導についても同様だ。生徒の行動を制限する場合は、あらかじめルールを生徒に周知しておかなければならない。何か新しい事情が生じたからといって、ルールが周知されていなかった当時から続く生徒の状況を処罰の対象としてはならないといこと。ごく当たり前のことと感じられることだが、しかし、教育現場では案外見落とされることも多い。よく見かけることは、担当する講師が変わると大なり小なりルールが変わるものだが、その変えるルールの詳細をあらかじめ伝えきれないで、新任が新任の論理で叱責することなどはよくある。本当のところでは、基準があらかじめ示されないなら、指導はそもそも成り立たない。

 基準のこととなると、生徒の評価基準もあらかじめ示されたもので評価が進められる必要がある。これもごくごく当たり前のことだ。上級学校へ進学する際の成績基準もそうである。これは上級学校側から示されるものだが、この基準を、例えば上級学校が人気になって受験生が激増する見込みになったからと言って、期中に変更して新しい基準を打ち出すなどということはご法度である。年度初めの生徒募集要項で一旦うたったことは、学校サイドの一方的な事情で変更してはならない。その年度はそれで貫徹して当然なのである。

 また、1年間のルール貫徹では済まない事柄も中にはある、いわゆる中高法人と言われる、中学校と高校を併設している学校で、中高一貫教育などを推進している場合は、基準の有効期限は生徒の入学時から卒業時までというものもあるだろう。例えば、同一法人が経営主体であっても中学から高校へは進学検査はある。この時の合格基準等は、教育方針に中高一貫をうたったなら、入学前には示されていなければならない。そして、それは基本的に中学なら中学をその生徒たちが卒業するまで変えることはできない。従前の基準を確認して入学してきている生徒たちである。上記の不遡及の原則の通り、新しい基準にしたがって従前の基準を認識している生徒を評価することは筋違いとうことだ。ましてそれで合否を分けるなどというのは、実際理不尽である。

 このような合否選別は、いわゆる学校の一方的な事情による“間引き”と解釈されてもやむを得ない。しかし、生徒はもちろん盆栽や家畜とは違う。学校当局の勝手は許されないのである。ここで基準となっていた数字は変えてはならない。前回のこのコラムでは、入学試験時のデータ数字を、高くしたり、低くしたりがあってはならないことを記したが、そのような“おびき寄せ”を行ったのと同じ人物が、それで集った生徒たちを今後は勝手な都合で“間引く”なら、それこそ“どの面さげて”再び生徒の前に立てるのか?まったくもって訝しいところである。(了) 文責;島田真樹


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