2015年08月

平成27年8月27(木)  第一声の話 (5)

 トップマネジメントにはどうしても倫理性が求められることを前回述べた。特にスタッフの倫理観に明らかに抵触するようなトップの異性問題が浮上するに及んでは、早晩、当該の組織はその末期の水をとることとなる。

 さて、今回の稿では組織内の結婚問題を取り上げたい。
法人のスタッフの男女構成比がバランスを欠くケースはかなりの企業、法人で見られることだろう。女性スタッフが少数派となっている法人では、その職場のその少数の女性スタッフから、もっと女性を登用できる職場にして欲しいと声が挙がる。つまり女性が働きにくい環境になっているのではないか?また、女性を職場の戦力として軽視しているのではないか?それらは改善すべきだ、という至極自然な声が挙がるのである。特に顧客が男女半々であるような職種の場合は、極端にスタッフの性別バランスが偏るのは不具合だ。問題解消が望まれる。

 そこで、当該法人のトップは女性スタッフの採用を強化することとし、一定数の女性スタッフが新たに採用となった。この採用自体は妥当性が高い。しかし、その時、当該のトップは、採用した女性スタッフを、あろうことか“結婚しない”から選抜したというならどうか?選考時に応募者本人から「結婚しない、そして出産しない」と言質を取ったとまで言いのけるような採用面接が本当に行われたとすると非常に問題である。そのような約束を前提に採用することは、少なくとも雇用機会均等法に触れることはまちがいない。当然、そのような直接的な確認は面接時に為されることはない。人権侵害の要件を満たすからだ。

 すると“結婚しない、出産しない”と選考時に応募者が言ったのではなく、話の片々からそのように採用者が類推し、思い込んだに過ぎない事態と解するのが妥当だ。繰り返すが、応募者から結婚しない、出産しないという言質を取って採用したなら違法行為となる。そのような不適当で下手な確認を立場のある者がするはずはない。

 ところが、その採用者の思い込みを相互の現実の約束だったと捉えるような事態が生じるのはいかなるプロセスか?このプロセスにこそ重大な問題がある。

 やがてその後、当該の女性スタッフが結婚したと法人に報告してきた時、そしてさらに懐妊したと報告してきた時のリアクションはどうなるか?女性スタッフのことは、約束を反故にした敵対者と一方的に決めつけることになる。対して自身は約束を破られた被害者だと思い為す。女性スタッフにとってそれは驚天動地の言いがかりでしかない。だが敵対者の排斥がまたぞろ始まってしまう。そのパージの中には、究極の福利厚生と社会的にみなされている法人からの結婚祝の凍結を叫び出すなどという愚挙も含まれる。合理性も何もない。こんなことは法人の全スタッフにとってマイナスにしかならない。権限者の思い上がりも甚だしい傲然たる愚挙である。事実はただの一方的な“仕返し”であって、その私怨を晴らす報復のために手段をまったく選んでいないというに過ぎない。まさにマタハラである。

 このような暴挙が法人内で進んでいることを周囲のスタッフが知り始めたらさすがに騒然となる。そしてそこから遂に第一声が挙がるに至るが、むしろそれは必然と見える。

 職場のスタッフが結婚して伴侶を得る、あるいは子ども持つ、それを仲間が認め合い、法人としても祝意を示すことは日本の企業法人の美風だと思える。逆に労働力の供給効率から結婚させない、子どもを出産させないなどとというのは、その考え方においてアウシュビッツを生んだ思想に底が通じている。

 スタッフの結婚、出産を拘束しようというのは暴挙であると同時に無謀だ。なぜならそのような動きは構成員に看過されないからだ。反発必至である。また、もう一つ、職場のスタッフに結婚がタブーであるなどというなら、言っている自分自身はどうなのか?という声も挙がる。自身も職場結婚ではなかったのかと問うわけである。スタッフにばかり、他人にばかり足枷をかけようとするのはどういうことか?そうなるわけだ。次回へ続く。(了) 文責;島田真樹

第一声の話 (4)

 前回はパワーハラスメントというものが対象となった個人だけでなく、法人全体を蝕みかねない凶事であり、また、この手の暴挙に出るようなレベルの経営者は、同種の事件を執拗に繰り返し、組織を崩壊に至らしめる元凶となることを述べた。経営者の歪みが組織の構成員へ及ぼす影響は甚だ大きい。その歪みが構成員の間に公然化して広まることが組織の致命傷となりかねない。

 ここで言う“歪み”とは、まっとうな社会的倫理観から大きく逸れていることを指す。そして繰り返すが、その歪みを構成員すべてが目の当りにした時が、当該組織の滅亡の序章がめくられた時だ。以降、経営者が何を述べようと“他人様へもの申すなどおこがましい”と構成員が思い始めたら、当該の組織は終末に向かうほかない。この状況の組織が崩壊を回避するには、そうなる前にこの経営者の歪みを糾す第一声を挙げるしかないことを繰り返している。重ねて黙認こそ最大の敵となる。

 組織のトップには一定以上の倫理性がどうしても求められるのである。このことは世界共通だろう。トップマネジメントの言動、すなわちその発言や行動が倫理に悖ることは許されない。節操がないのは唾棄され忌み嫌われるところとなる。その典型がよくあるトップの異性問題である。これが起きると見事に人心は離れる。普段、高説を唱えているトップの場合は、そのギャップが大きい分、急降下で信任は地に堕ちて果てる。壊れるのは一瞬だ。

 世の中で事例に枚挙の暇がない事柄ではあるが、専ら法に触れる内容だけが倫理に悖るとされるのではない。そこまではいかなくても、構成員をたちどころに鼻白ませる事例はたくさんある。構成員のアンテナはこの点ではきわめて過敏であり、細大漏らさず見逃すことはない。

 新入職の女性スタッフを、採用時の職種から転じてトップの秘書とすることにはなんら問題はない。それは人事権者の裁量の領域である。しかし、構成員の受け取り方、解釈はそれほど明快ではない。唐突に見えることで、半ば疑念が兆している。そうなりがちであるがゆえに、このような解釈の幅が生じる人事は一般には行わない場合が多い。さりながら一方で、その人事がどうしても必要であるなら、もちろん行わなければならないが、この時には構成員の疑念に触れないよう注意はしておきたい。誤解を与えないよう、まさに業務遂行にビジネスライクに徹することが一定期間続いて、構成員の疑念を雲散霧消させるような心遣いが必要だ。

 そのような微妙な状況にあって、首をかしげ加減になっている構成員の耳に、あろうことか当該の秘書がトップのことを「~坊」と呼んでいるなどと皆の耳を疑うような情報が届いたらどうなるか?昔、ヒロシ&キーボーというデュエット歌手がいたが、この伝で、「~坊」はファーストネームにこれを付けて愛称にする時に使う。誰のことをそう呼んでいるのか?これでは何があってもなくても、トップの威信はガタガタと音を立てて崩れ落ちるだけだ。

 こういった事柄もやはり繰り返される。構成員が「またかよ」と思ってしまうようでは、当該の組織はグチャグチャになる。紙数が尽きた、このテーマで次回さらに続ける。(了) 文責;島田真樹

第一声の話(3)

 引き続き、組織の崩壊要因について考察を加えている。前々回では、まず経営者において健全なる精神があるか?を取り上げることから論考を始めた。次いで、前回は、経営者が当該の法人にあって個人の利殖をその経営より優先するようでは組織に先はないとも述べた。いずれも経営者の在り方が組織へ及ぼす影響の深刻さに触れることとなったが、やはり組織の崩壊を考察する時に、その当該経営者の行状に言及することは避けられない。

 三稿目として、今回は組織の構成員の人心離反について考えたい。さて、例えば、大きな病院の院長が、人事権者であるからと言って、内科同士だからと呼吸器内科に所属していた医師を消化器内科に異動させるようなことはあり得ないだろう。患者への医療が適正に行われるかの観点が最大限優先されるからだ。また、この人事で医療ミスなどが起きてしまった場合は、あまりに大きな責任を院長は問われることになる。だから普通は行われない。しかし、もしこれをそれでも断行する院長がいたとしたら、また、それがその特定医師を”干す”ための凶行だとしたら、その病院は、早晩跡形もなく消え去るだろう。病院のスタッフ全員が事の真相・顛末を見ているからである。

 経営トップが強権を背景に、人事の名を借りた特定者の排斥に出ることは、当該の組織の致命傷となりかねない。そしてそれとともに、そのトップ自らの経営者生命に致命傷を与えかねない。なぜならその顛末は同じ組織内において、衆人環視するところとならざるを得ず、ゆえにその経過を傍観しているスタッフすべてにとって、容易に理解できる処断の理由が必要だからだ。それが示されない場合は、その処断には最低でも手続きの不正があるとスタッフに看做されることとなる。まして、例えば、不安定な精神状態の者が忽然と誰かれを敵対者と思い為し、勝手に“チキンレースの敵”をパージし始めたとしか周囲に映らないなら、その瞬間に当該の組織は崩壊の一途を辿り始める。

 上記の医師免許など一つの国家資格とは言うものの、さらに細分化された専門分野はある。法曹でも様々な専門領域がある。また、教職についてもこのことはあてはまる。特に理科や社会科は科目が分かれ、高校内容ともなるとかなり専門化、細分化する。二刀流とは言うが、例えば地学と物理、日本史と世界史を同時に担当する者は現実にはあまりいない。長らく専門科目の指導にあたってきた教員が、ある日突然、青天の霹靂のように、免許はあるが手掛けて来なかった科目の担当を命じる辞令が出る。そのことのまともな理由は誰にも理解できない。教務上の判断とは無縁の制裁と観る向きすら出る。さらに、そもそも生徒の利益を顧みていない、むしろ逆に平然と踏み台にして憚らない姿勢だと疑念のみが膨らむ。すなわちあまりに合理性を欠いている人事と大多数が看做している。国家の免許があることだから問題ないとは誰も観ない。むしろ典型的なパワーハラスメトだと認識してしまう。こうなったらそれは最悪の状況だ。

 パワハラ問題では、言うまでもなく対象となった者の負担・被害はきわめて大きい。しかし、もう一つ忘れるべきではないことは、その他の構成員への影響の深刻さである。この手の凶事は、一度でも組織全体を吹き飛ばすに十分である。構成員全員の離反は一瞬で完了する。一方で、この挙に出るような経営者はその手の凶行を一度で終わらせることはまずない。必ず繰り返す。そうして驚くほど完全に当該の経営者への人望は失われる。そして二度と回復はできない。離れ去った人心はもはや戻って来ることはない。理不尽は結局通じないし、続くものでもない。

 トップマネジメントには倫理性が必ず求められる。次回さらにこの点の核心へ考察を進める。(了) 文責;島田真樹

第一声の話(2)

 前回に続き、組織の崩壊について考察を続ける。
 経営者が利にさといということは必ずしも悪いことではない。反対に利に疎すぎる経営者では経営は成り立たないだろう。ただし、ここで言う利とは“カネ”のことだけを指していない。営利法人だと言ってもカネだけがその積み上げるべき利ではない。たとえば、その仕事を通じてクライアントやコミュニティーから信用がより高まったのであれば、それは明確に利があったのである。まして公益法人ともなれば、公利・公益を担う者として、“カネ”より優先しなくてはならないものが相当ある。利にさといと言って単なる拝金主義ではそこを見損なってしまう。

 公益法人を経営しようと考える者が、「いつか自分も非課税法人を経営してみたかった」と言うだけで当該の法人に入り込むことは、法人にとって毒になるだけである。あるいは「立地からして土地だけでもざっと・・・は下るまい」などと、ことごとソロバンをはじくばかりでは、公益法人の経営者として不適格と言わざるを得ない。法人に猛毒の“異物”が混入してしまった状態が生じる。ゆえに、早晩、法人の自己免疫機能によって“異物”は体外に放逐されることとはなる。ただ、放逐されるまでは組織において一種の中毒状態が続き、結果として組織はこの間もだえることとなる。

 ここに内在する本質的な問題は所有意識の問題である。言うまでもなく、法人を私的に所有することは、公益法人において認められていない。“利を私する”こととはなじまないのである。一方、これが株式会社であるなら株主の私有物であって、所有株式の売買を通じて“利益の確定”をすることになんら問題はない。利殖は許される。ただその株式の譲渡にも正当な手続きは求められている。個人の所有だからといって何をやっても許されるというものではない。いわんや公益法人ではそもそも法人を通じての利殖は許されておらず、まして株式譲渡さながらに“利益の確定”などできようはずもない。しかし、その挙に出る者はいる。さながら法人の所有者を気取るがごとくである。経営者においてかくの如き考え違いがある時、組織は致命傷を負いかねない。上記の“非課税法人を経営してみたい”などとうそぶく者は、必ずやこのような動きに出る。

 ( 経営者=法人 )ではない。自明のことである。しかし、時間の経過とともに( 経営者=法人 )と錯誤に陥る者はおり、また、それは深刻化しやすいことも事実である。先述の所有意識はこの錯誤の中で鎌首をもたげてくる。やがてそのうち個人の利得を、平然と法人の名で語るようになる。相当に危険な状況だ。しかし、本当の重篤な危機はもう一つ先にある。それは( 経営者 > 法人 )とその経営者が見なし始めた時だ。この段階では法人は踏み台になるばかりだからだ。当然の帰結として、この時その組織は完全崩壊を待つばかりとなる。そもそも( 経営者=法人 )などと思い為す者は、やがて必ず( 経営者 > 法人 )と見なすようになるだろう。この進行を見逃すべきではない。非常に困難なことではあるが、沈黙を破って声を挙げるしか当該の組織を残す方法はない。前回も述べたことであるが、結局それしかないと思える。決然として事態を公開してゆくほかない。さらに続ける。(了) 文責;島田真樹

 
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