2015年07月

第一声の話

 これから何回か、学校はじめ教育機関を含む組織の崩壊について考察してみたい。その組織がなぜ崩壊したのか?その原因を後進が知ることは、多少なりこの先同じ轍を踏まない確率を上げるものと考える。

 そこでまず手始めに経営者の精神性を取り上げる。なんと言っても経営者の精神性の如何が経営の安定に及ぼす影響はきわめて大きく、これが不安定であるとか、さらには異常を示し始めると組織は必ず激しく痛む。これはまちがいない。歴史にも多くの先例があり、俗に言う“殿のご乱心”が招くのは決まってお家の断絶であった。何が組織の大敵か?を考える時に、誰もが頷くのは経営者の精神の変調である。組織の経営安定には、まずは経営者の精神の安定が前提になければなるまい。

 精神の不安定と言っても、それは性格の偏向とは少し違うニュアンスがある。経営者には往々にして強烈な個性の持ち主も多いが、それらはその人物のカラーと言える範疇であり、極端に度を越せば別だが、必ずしも特異な個性が組織を崩壊させるとは考えていない。

 しかし、それが例えば経営者が薬剤の力を借りなければ自らの精神の均衡を保てない場合は、話は変わる。その時点で既に当該の組織は全面的に危うい。まず、その経営者には適正な判断はできない。適正な判断こそは経営者の使命だ。コアな経営判断を適宜行うことをもってマネジメントと言う。すなわち当該の組織は、マネジメント不在の危機に常に瀕し続けなればならない。

 薬剤の力はもちろん万能ではない。投与があっても経営者の精神の均衡が破られることもままある。激しい振幅をみながらリスク感が急激に増大し、そのため過剰で理不尽な反応行動に衝動的に出るなど、頻繁に“ブレーキの利かない状況”が現出する。これではマネジメントは無理だ。前夜は笑い話に付されたことが、一晩繰り返し脳裏で反芻され、その反芻の度に変形し続けるせいか、翌朝始業時にはその同じことが究極の敵と成り変っている。そして容赦なく殲滅すべし、と叫び始めている。狂乱怒涛のプロセスを経なければこれほどの落差は生じない。このある種トランス様の状態を共有し得る者は誰一人いない。

 このような心性を持つ経営者は、周囲から孤絶するほかなく、したがって独裁しかできない。また同じ理由によって猜疑心の塊となりがちで、自ずと内外に敵対者を次々と作り出してしまう。例の“すぐにチキンレースが始まった”と捉える習いはけして消えることなく、相手が外部なら破壊工作を仕掛け、内部なら粛清を行う。悪名高いソ連邦のスターリンによる粛清は5000万人もの同胞を葬り去ったと言われる。そのスターリンの心性については既に通説がある。

 指導者の心性によって組織が自滅するのは事実である。ただその自滅に至るプロセスにおいて当該組織の生身の構成メンバーが直面する環境は苛烈と言うほかない。“一将功成りて万骨枯る”と言う。その万骨枯れた時に既に組織は消えたわけである。問題はこの自滅のプロセスにあって、間もなく自滅とわかっていながら、構成メンバーはその環境をなかなか変えられないということだ。言うは易く行うは難し。犠牲者がまったく出ないうちに変わることは本当に難しい。

 一言で言うなら、多くの者は黙してしまうからだ。映画“羊たちの沈黙”が述べた、その沈黙である。
声を挙げることはよほどに勇気が要る。しかし、組織が自滅を回避することができるとすれば、唯一、その沈黙から声が挙がった時だとも思える。それがままならない状況、すなわち経営者の常軌を失った心性に声ひとつ出ないような絶対服従の組織は一番危うい。

“樅の木は残った”ではないが、その時第一声が挙がれば組織は残り得る。さらに次回に続く。(了)

 

“耳順”の話

 齢還暦も過ぎたあたりでは、さすがに昔は暴れていたという人物もすっかり落ち着いて、若い者の相談ごとを聞くなり、後進の技術指導にあたるなり、その世界のまとめ役を担う年配だと思える。それを分別盛りの頃と言われて頷ける。そういえば論語で孔子は六十歳の境地を耳順と言っている。すなわちどんな話が耳元に届いても、慌てず、騒がず、動揺も立腹もしない心境だと言うわけだ。

 六十歳をもって定年退職としている企業・法人はいまだかなり多い。今は六十五歳定年への移行中という感じだが、ともかく六十歳で一区切りをつけるあり方は、冒頭の還暦を祝う風習に繋がるのかもしれない。十干十二支の干支が一巡した後の二巡目の始まりが還暦の意味するところであり、その転換点に第二の人生のスタートを合わせるイメージなのだろう。

 しかし、その還暦を過ぎても、日々というよりも刻々とインターネットに張り付いて、匿名の掲示板で自らの嘘がばれないか、怯えながらさらに嘘を上塗りすることが止められない人物もいるようだ。会社なら社長・会長、役所なら局長、学校なら校長となっている者もいておかしくない年令加減で、何をやっているのか?

 もっとも、自身の嘘を真に受けて丸呑みしてしまった人物が他に出てしまった時は、確かにその嘘はおいそれと引っ込められない。毒を盛ってそれを丸呑みした被害者が出たということだからだ。被害者はその毒によって発熱したり、嘔吐を繰り返したわけである。それがためにこの人物があらぬ行動に出たとして、そこに本質的に罪はないか、相対的にはきわめて軽いと言える。元を辿ればたれ流しの嘘が原因である状況において、もちろんその毒を盛った加害者はその加害責任を免れることはできない。だから怯えている。なぜならその手の嘘は、その時点の関係者に聞くなり本気で調べられればすぐに事実が露見するからである。その時は当の被害者が当人の被害をまさに知ってしまう時となる。そして加害者はひたすら報復に怯える仕儀となる。世の中は思ったより広く、思ったより多くの人が事実を知っているのである。

 「・・・背中の銀杏が泣いている」、これは例の橋本 治氏の有名なコピーの一部だ。今の六十歳過ぎは学生運動の最後世代でもある。青年らしい正義感に駆られたその頃を思い出してはどうか?嘘は嘘を呼ぶ。嘘しか呼ばない。はじめの嘘が、はじめと見えてその嘘を呼ぶこととなったその前の嘘があるだろう。そうやってこの先もまだ続けるというのか?だとすると旧知の者がいる場所には二度と帰れまい。嘘が通じないところには近寄れないだろう。それを世間では逃避行というのではないか?さてもこのままでは「背中の・・が泣いている」ばかりだろう。(了)

 

案山子の話

 教育の世界に無縁のことではないと思っているので、さらにしばらくネット問題のことを続ける。ネット上の誹謗中傷内容に対して開示裁判等の法的対処に踏み切ることは個人においても法人においても行われていることだ。また、こと当節にあってはけして珍しいことではない。しかし、そこには一定のふんぎりが要ることもまちがいない。個人もさることながら法人がインターネット上の誹謗等に対して開示裁判に踏み切る場合、もちろんそこに法人としての決裁判断がなければできようものではない。なぜならそこには確実に費用が発生するからだ。それもある程度まとまった金額が必要となる。おいそれとはできることではない。ふんぎりが要るというのはこのことである。

 開示裁判等で当該書込みを行った人物を特定し、そのまま刑事や民事の裁判に掛けるか、あるいは示談に入るなどする。それできれいに解決すればよし、しかし、実際にはそれでも解決し切れない場合がある。一つは、明確な誹謗であるか否かの判断は俗に言うグレーであって、妙な言い方だが、“絵に描いたような誹謗”は案外少ないからだ。事後、なかなか特定されないので、それゆえ形を変え品を変え止まらない。それをじれったく、まどろっこしいと感じる者が出ても不思議ではない。

 しかしながら、かと言ってその者が法の判断を待つ前に、さながら自警団のような防戦態勢をある種組織的に敷くことは法律的に許されることかどうか?一度確認してみたい。ガードマンならわかるが、ガードマンはいわゆる専守防衛だ。明らかに専守防衛のラインを越えて、目には目を、歯には歯を、と言わんばかりの復讐法を地で行くような先鋭的な動きに出ることはいかがなものだろうか?

 その成れの果てがどうなるか?推して知るべしと言うべきだが、その前に、ではなぜそこまで抗戦するか?そこに実は真理が潜んでいる。

 たとえば、スケアクロウが必要だったという見方が一つ。ご存知の通り、英語の“スケアscare”は「怯えさせる」、”クロウcrow”は「カラス」のことだ。すなわちカラスを脅して追い払う案山子がスケアクロウだった。田舎では竹や棒に服をまとわせ、その上に麦わら帽子を被せた擬似農夫ならぬ案山子の他に、実際にカラスの死骸を紐でぶら下げたものもある。つまり「カラスよ、来たらこうなるぞ!」と見せしめにするのである。もちろん目的は唯一つ、カラスを近づけないためだ。ゴンベイが蒔いた種がカラスによって地面にほじくり出されるのは困まるからだ。

 徹底抗戦に及ぶにはそれなりの理由がある。しかし、いかなる場合も手段は選ばなければならない。繰り返すが、少なくとも法の許すことであるか?さらに人道的に許されるのか?どうしても顧みなければならないはずである。(了)

 

“今日の友”にする話

 思えば、プロバイダー責任制限法関連だったが、発信者情報開示請求についてのガイドラインが世に出る前だったか、「発信者情報の開示に反対するための上申書を出そう」と話を持ち掛けられたことがあった。他にも2,3人にこのことの声掛けがあったと思う。降って湧いたような話と感じられ、個人的には気が進まなかったが、押されてとりあえず書くには書く、ということになった。発信者開示に反対する理由は何か?その言うところは「発信者が開示されることで、例えば子どものいじめ問題が深刻化する可能性があるからだ。」ということだった。しかし、そう聞いてもかえって混乱し、余計に反対の趣旨が分からなくなってしまった。

 当時、インターネットによっていじめはより陰湿化している、などとは叫ばれ始めていて、心無いいじめが絶えない世相は確かにあった。しかし、そういう誹謗者の正体が誰であるかを公表することは、いじめ問題を複雑化させるから行ってはならないと言うなら、いじめ問題はすべからくそっとしておくしか対処の方法がないということになる。そんなはずはないだろう?極々当然の疑問を感じないではなかったが、それでも頼まれた形ばかりの上申書を数日うちに書いて渡したのを覚えている。

 普通には、発信者情報を開示されて困る一番手は、不公正な情報を発信した当事者その人だ。ばれないと思っていたから書き込んだものを、開示が始まればすべてばれてしまうではないか!そんな話は聞いていなかったぞ!発信者情報の開示には断固反対する、とその当事者がむきになって言い出したとして不思議はない。

 また、おそらくではあるが、自分が不公正な書込みを行っている者は、他人のそれに対して過敏になりがちなのだろうと今では思える。そういった心理について思い出すことだが、カニバリズムの習慣がある部族のことを扱ったドキュメンタリー番組をずいぶん昔に観たことがある。その部族は人が容易に近寄れない森の奥の高い樹上に住居を編んでひっそり棲んでいた。そしてなにより番組の取材スタッフを極度に恐れ怯えている様子が画面から感じられた。自分が食するのだから、相手も食するだろう。そいうことなのだと思えた。この心理と似ている。

 この心理によって、さながらチキンレースのごとき誹謗合戦が始まるように見受ける。「もはや状況は核爆弾の発射ボタンをどちらが先に押すか、そうなったら先に押した者勝ちだ。」という向きがあるようだが、それはまちがいだ。なぜなら世界にいるのは、どう転んでもその当事者同士だけではないからだ。その他多くの、いわば“食さない”衆人が環視している中では、先にボタンを押した者の軌跡ははっきり残る。「この者が先にボタンを押して不意討ちをした者だ」と人々は伝え合うことになる。その汚名から逃れることのできない者が果たして勝者なのだろうか?

 その果てに、現在は、たった一名の読み手のために書込みを止められなくなっているとしたらどうか?既に他の誰かが読んでくれることなど望んでもいない。事実であるかどうかはとっくに問題ではなくなっている。“昨日の敵は今日の友”とは言う。“今日の友”であるために、共通の敵を作り出して均衡しようとする苦肉の策は歴史に枚挙の暇がない。そのたった一名に、自分がかつての敵対者であったと悟られないよう、一人で何役もこなしながら、同士と思ってもらいたい一心のみで、せっせと書き足し続ける日々はどういうものだろう?“相手も食する”にちがいない、例のあの心理からなら、報復が必ずあると恐れるのだろう。

 不自然を自然にみせることは無理がある。それはその無理ゆえに、やがてその異形があからさまになるだろう。それら顛末は教育の世界にとっても案外に大事なことになりそうで、 そのことの背景までを浮き彫りにすることは意味あることと思えている。(了)

 
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