2015年06月

自由な発想の前に襟を糾す話

 先週、東京地検特捜部がネットで株価を不正に吊り上げたデイトレイダーを逮捕したという報道があった。実際の株価吊り上げはカラ注文を大量に出して、株価が上がったところで売り抜けるという手法である。ご丁寧にこのデイトレーダーは、当該株式がさも有望株であるかのごとく自らネット発信し、一般の投資家を煽りつつ、ありもしない注目銘柄をまんまと仕立て上げたということらしい。

 当局が、この事件の逮捕報道によって一罰百戒を意図していることは明らかだ。いつも思うことだが、警察機構が本気になれば、この手の犯罪は簡単に挙げてしまえるように見える。ここのところの諸々の事柄から、そのように確信するようになっている。特にネットのような本来は“閉じた回路”の中における情報のやり取りは、それぞれの発信の軌跡を辿ることはむしろ容易であるはずで、もちろんこのことは誰でもわかる理屈である。ネット系の犯罪と比べれば、その他の犯罪の方が犯人の特定の困難度は多くの場合より高い。ネット系にあるような軌跡が、一般の犯罪にはそもそも残っていない場合が多いからだ。少なくともネットの中であくまで匿名を貫けるという考えは、実はあまりに素直で素朴過ぎることなのではないか?

 あとは効果の問題なのだろう。いつ挙げるか?同種の犯罪抑止に一番効果的な時期を見はからっているのだろうと思える。今回のデイトレーダーの事件も、価格操作が実際に行われたのは4年も前のことのようだ。当時の時代背景では株式投資が過熱する要因はあまり見当たらなかった。ところが今時分は株取引は一定の活況感を取り戻しつつあるようで、綱紀粛正の効果が高くなっていたわけである。つまり、このデイトレイダーはこれまで“泳がされていた”ようにも見える。効果が出るまでとって置かれたというと言い過ぎになるだろうか?

 教育の世界でもネット媒体を含むICT教育の強化が叫ばれ、業界誌などもその強化を進める学校法人などを紹介することが多くなっている。そういった専門誌には教育産業による発行誌もかなりある。そういった媒体を通じて受験生保護者が読む内容に“ICT”が売りとして取り上げられていることは多い。もちろん多少の誇張はあるだろうが、虚言の域に達してしまっているものはいただけない。本当にできるのかどうか?当たり前のことだが、教育においてネットで何でもできるわけではない。事実はどうか?確かめが必要である。

 また、教育に携わる者自らが、ネット媒体の不公正な利用をしていないか?教科の指導法においてネットを介してのICT化が進みつつある現状にあっては、このことは注視せざるをえないだろう。ICT化により従来の教材よりも広い世界をより柔軟に取り扱えることはまちがいないことで、生徒の発想もより豊かにその自由度が上がる可能性は確かにある。もちろん発想は自由であって結構なことであるが、世の中の約束事を無視することまでを自由とは言わないはずだ。ここは教える側がまず襟を糾さなくてはならない時だろう。まずもってその時である。(了)


今が変わる話

 一枚のペーパーが手元にある。そこには、とあることに関与している当該人物を突き止めるために「職を賭して闘い抜く」と書いてあるのが読める。少し前のペーパーだ。はじめにこのペーパーを読んだ時は、こんなことに職を賭すなんて?と疑問を感じた。読んだ他の者も同じ感想を述べていた。しかし、ことここに至ってみると、ペーパーにある公言の通り、そのようなことに職を賭す者が実際にいることは分かった。“賭した”というのだから、それを失うこともあるのだろう。

 超然としてやり過ごすべきだったのではないかと思う。立場からしてそうあるべきとされる者もいるはずだ。職を賭すなどナンセンスであった。百歩譲って仮にやり過ごせないのなら、対処はきわめてオーソドックスな方法に留めるべきだ。オーソドックな方法とは法的手段に訴えるとか、社会正義に問う等々だ。それを越える方法に自らの手を染めることは“ミイラ取りがミイラになる”ことに他ならない。あるいは吸血鬼に血を吸われて自らも吸血鬼になってしまうことに似ている。

 しかし、その経過にまつわることはもはやどうでもよいことだ。時計を巻き戻すことはできない。今現在がどうなのか?意味があるのはそれだけだ。過去は変えられない。虚言をいくら弄してもそもそもの事実までを変えることはできない。変えられるのはむしろ“今”しかない。虚言ではなく事実を述べることで素の自身に戻るなら、それは“変わる”ということだ。

 まもなく確実に一つの節目がくる。坦々と事態は進行しているのみである。よろず個人の手を離れてからは、いわば代わって”社会”が問うことになる。社会は法と秩序による手続きをもって問うて行くはずだ。もはや粛々とその結論を待つのみだ。そして、一つの結論が、その奥に向かって全貌を明らかにして行くのみである。

 話は変わるが、生徒である子供たちは真実を知る厳格な経験をした時どうなるか?ケースバイケースでもあるし、一概には言えないが、しかし、知らないでいる時と知った後とで功罪相半ばなら知る方がよい。無知でいさせられるより、強い人生を選択できる契機とし得るのではないか。生徒にとって、今を変えるにはその選択しかないかもしれない。(了)    


 

いつまでも待ってはくれない話

 千葉県教育委員会が県立高校に勤務する現役教員を懲戒免職としたと先週6月10日の報道で知った。懲戒解雇の理由は、この教員が過去の複数年に渡り電車通勤を自動車通勤と偽り、学校へ虚偽申請して交通費の不正受給を続けてきたこと、加えて通勤時に鉄道のキセル乗車を繰り返し、常習的に無賃乗車を繰り返したことに対する処分であるという。不正受給が3年半、無賃乗車が1年半に及んでいる由。これらの行状は、先ごろ5月20日に鉄道警察がこの教員の無賃乗車を摘発して発覚したとのことだった。

 この教員に対する県教委の処分は適正である。確信犯と言わざるを得ないこの教員の犯行態様が誰の目にも明らかだ。教員は相応の責任を取り、また当然、償いをしなければなるまい。すべては本人の所業による。悔い改めるよりほかはない。

 まずは、鉄道警察に不正を摘発されてから発覚したのでは遅い。それでは酌量の余地はない。当然、教員への処断は問答無用となる。教員本人は、ひょっとするとこれらの犯罪はけして露見しないことのように思っていたのかもしれない。そもそも露見しなければ何をやってもよいという考えが、根本的にまちがいの元である。しかし、普通の人間の心理では、キセル乗車などした日には、“今日はばれるのではないか、明日は露見してしまわないか”多少ともそのような怯えを持つものではないのか。その点、この教員には自身以外が見えていない。きわめて視野が狭窄だったと言える。

 ありがちなこととして、今回の不正事件も内部の告発から鉄道警察が動いたということではなかったか?通勤時は誰もが目的地に一斉に近づいている時間であるから、互いの接近遭遇の頻度は通常より相当高いはずだ。聞くところこの教員は、途中駅から学校へは自動車で通っていたそうだから、教員の姿が電車で見られたならば何だ?ということにすぐなるだろう。まったくの憶測に過ぎないが、すでにある程度の学校関係者にこの教員の行状は知られ始めていたことではなかったのだろうか?実はそこが最も大きな問題ではないのか?厳罰をもって対処するほかない事情となっているのではなかろうか。

 教員本人は少なくとも自業自得である。けれどもこういった事件の度に頭を掠めるのは、この教員に指導を受けていた生徒たちのことだ。教育関係者の犯罪はこの点でやはり罪深い。顛末を知った生徒はどうしてもショックを受けるはずである。だからというか、もっと穏便な処分はないものか?このような教育関係者の犯罪事件を聞く度にそんな風に思う面がこちらにあった。だが、今は考えを変えた。例えば、サッカーの審判がファールを正確にとらなければ試合は荒れすさんでしまう。ゲームを護るには公正な審判のジャッジが必要である。健全な秩序が、すべての組織に必要不可欠である。

 しかし、それでも教育に多少なり関わる者として生徒への影響には関心がある。ただ、このような事態を経験した者は滅多にいない。だから聞こうにも聞ける相手がいない。実際に、教職員の服務事故が生徒や同僚教員にどのような影響を及ぼすか?垣間見た人はそれほどいるものではないだろう。およそ一般人には及び知れないことだ。専門家に伺う機会があれば、ぜひ事例など尋ねてみたい。

 仮にこの教員が、公安の摘発によるのでも、周囲の訴えからでもなく、教員自身が自ら重い反省の上、罪を認めて謝罪と償いを申し出れば、この事件の様相はまったく異なるものとなっていた。そこには前提として教員の改悛がある。そうであれば教育委員会が組織の綱紀粛正をするまでには至らない。一罰百戒の処断をするには及ばなかったはずだ。周囲の関係者もやがて鎮まったであろう。教員が自ら悔い改めたなら、関係者間での解決をみる可能性が高かっただろう。そうではなくて、教員が言い逃れを続け、周囲を鎮めるなんらの行動もしない上では、手はやはり一つしかない。それはむしろ天誅と捉えるべきとも思える。そして、天は悔い改める時をそれほど長くは待ってはくれないようだ。千葉の今回の教員の件は、まさにその通りのことだったのだと思えてならない。(了)

 

時は数えられたり、の話

 生徒が放課後忘れ物を取りに教室に一人戻ってきて、この時、他の生徒の持ち物を過って壊してしまい、そのことが言えずにその場を立ち去ってしまう、などというシーンが学園モノのドラマによくある。その時、壊した生徒がすぐにその場で先生などに申し出るなりして、そしてその後改めて持ち主の生徒に率直に詫びれば、多少の泣き言や文句を持ち主から言われることはあっても、一件はそこで落着するはずである。しかし、実際にはその多少の咎めすら怖くなって、また、自分以外に誰も当の現場を見ていないと思うと、逃げをうってその場を立ち去るなんてことも生徒によってあるだろう。

 当然、翌日にはその持ち物が壊れてしまっていることは露見することとなる。すると、ではこれを壊した犯人は誰か?という詮議が教室で始まる。壊れた持ち物の持ち主の生徒は落胆し憤っている。犯人が名乗り出ないことに特に怒っている様子だ。この時、当の壊した生徒はどういう態度に出るか?まずは自分が犯人だとバレてしまわないか気が気でない。こういう時、黙ってやり過ごそうとする者もいるだろうが、「犯人は誰だ?黙っているなんて卑怯だぞ!」などと、当の犯人であるにもかかわらず誰よりも積極的に犯人探しをしろと叫ぶ者も出てくるようだ。

 自分が壊したことが露見するのを恐れるあまり、他の誰かが詮索を始める前に、機先を制するように自ら進んで、持ち主に対して幇助者になると名乗り出るのである。そしていち早く「そういえば、昨日帰る時に級友のAが校舎に向かって来るのにすれ違ったんだけど」と、校地内にいた一人に過ぎないAを犯人であるかの如くに持ち主の生徒の前でほのめかすわけである。すると持ち主は怒りのため冷静さを失って、「なんだと。Aだったのか!」と、事実をよく確かめもせずにAを難詰し始めるのである。

 Aはその生徒の持ち物を壊してなどいないので、いくら問いただされようとも答えようはない。大事な持ち物を壊された怒りのほどはわかるが、持ち主のお門違いはお門違いだ。ここで筋悪は、Aへの糾弾が止まれば、自分の立場が危ないと、幇助者を装い続ける真犯人の生徒である。糾弾を止めれば真実が露見し自分が危うい。だから根拠があろうがなかろうが糾弾を止めることはできなくなる。嘘に嘘を上塗りすれば、ついには嘘をつき続けなければならなくなる。まるで定説通りの目に余る事態となる。

 まるで蟻地獄に落ちたようではないか?しかし、因果なもので、ドラマでは誰もいないと思った現場に実は人がいたなんてことが後でわかってしまう。そういうシナリオも多い。その犯人が教室から出るのと入れ違いのタイミングで近くに通りかかったとか、あるいはベランダに出ていた人物とか・・・。事実はそのようにして浮かび上がってくるものである。そして、生徒たちに何かあったのか?と、学校当局が動き始めたりもする。当局はさすがに当局であって、たちどころに真の悪を見抜く。かくして幇助者はマークされるに至る。そういった視力は素人の比ではない。やはりオーソリティはオーソリティだ。やがて物証も出てきたりする。例えば犯人である生徒が自分のハンカチをそこに落としていたりとか、等々。

 もはやその時が来るのを待つだけとなる。事実がすべて公然と明かされる時は近い。既に「汝の時は数えられたり」となっている。しかし、“数えられたり”という間はわずかだがまだ時間があるということでもある。この残された時間にどう動くか?このことによってその後がまるでちがうものになる。ドラマでは真犯人の生徒が自ら名乗り出るという結末もある。さて、では現実の世界で似たようなことが起きた場合はどうなるか?ドラマとちがってネタ丸見えの芝居を続ける場合もないとは言えないだろう。(了)

 

世に問うなら、という話

 本を出版することはそう珍しいことではない。出版不況とは言われつつも書店には新刊本が次々と並んでいる。もちろん売れる本もあれば、売れない本もある。教育関係でこのところ話題をさらった本は例の『ビリギャル』だ。以前この欄でも取り上げたが、その後も売れに売れてついにミリオンセラーとなった。また、先ごろこの本を原作とした映画が封切られたところでもある。この本などは飛び切り売れた教育関係の本と言えるだろう。ここまで売れるものはそうそうないが、教育関係の本もけっこう出版されている。

 どんなジャンルの本であろうとも、ひとたび出版という形でそれを世に問うたならば、書いた内容が読者によって様々な受け止め方をされることは至極当たり前のことである。もちろん、著者としてはできれば共感してもらいたいにちがいないが、すべての読者の賛同を得ることはまずあり得ない。中には思わぬ厳しい批判も混じるはずだし、酷評もあるかもしれない。しかし、著作を世に問うたならばその酷評をも一つの評価として甘受することが著者に課された掟ではないだろうか。

 ところが、仮に著者が自分の本に辛辣な酷評を浴びせられ、あろうことかその酷評者を探し出して突きとめようとするような者が実在したなら、それは明らかに掟を破る者となるであろう。しかも様々な手段を弄して、例えば探偵業者などを使ってまで探し出そうというなら、もはやとても常識範囲とは言えないのではないだろうか。それらの行動にどういう説明を施そうとも、著者と読者として越えてはならない一線を越えてしまうことになるだろう。

 著者が直接に著者の面前で酷評を浴びせる者に、酷評を止めるよう申し入れることはあってよい。批判をする者の側についても、ひとたび公然と他者の書やその主張を批判するのであれば、その批判に対するさらなる批判を甘受するべきだと考えるからだ。それが論争ということだと思う。互いに向き合いながらの論争は、それが新しい発想を呼ぶだろうし、新たな創造の源泉ともなり得るものだ。

 仮に論争を挑みたいために酷評者を著者が突きとめるというならまだわかる。手立ては尋常でないとしても、論争のためというなら一理あるだろう。しかし、それがその人物のいわゆる監視のためであったり、なんらかの抑止活動のためだというのならばどうだろうか?そうなったらあまりに不明朗過ぎるのではなかろうか。そしてその状況がかなりの長期間に及ぶようなら、さながら、どこぞの特務機関と変わらないとも言われかねないだろう。

 そのようにしてまで、とにかく見続けるというのはいかなることか?どこかへ跳んでいかれると余計に困るということなのだろう。おのずと、近からず、遠からずの位置に自らは立ち続けることになる。すると長い間にはこんなことも起こるかもしれない。思いもかけず人物に出くわすなんてことがそれだ。遠からず、にいるわけだから、何かの拍子でばったりそんな事態が生じることはあり得る。極々当たり前のことだが、その時になぜ自身がそこにいるのか言えるわけはないだろう。まして、そこにいる経緯やそこまでの歴史を伝えることなどもできることではないだろう。多分、突拍子もないあらぬ事を口走った上で、通行人かあるいは転じてお近づきになるほかあるまい。よくある推理小説のようではあるが、甲斐々々しく道案内などしている者こそが、実は・・・というやつである。ドラマや映画でもよくみかけるパターンのあれである。

 教育の現場では、著作と言わずとも、なにごとかを述べなくてはならないシーンが必ずある。言ってみればそういう仕事である。仮にそれが生徒や保護者、あるいは同僚等に受け入れられない時は、そのことを懲りずに繰り返し述べ続けるしかないのではなかろうか。おそらくそれは理解を待つことの領域ではないか。よもや牽制などして押すべきではない。なぜなら牽制などは人知れず行うはできないからだ。やがて必ず周囲に知れることとなる。その時に、なぜあの時に待つことができなかったか?思ってみても遅いだろう。理解を求めるなら、待たなくてはならない。(了) 

 
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