2015年05月

「囲い」の話

 先週、浅草の三社祭に小型無人機「ドローン」を飛ばすことを示唆する動画をインターネット上に配信したとして、横浜の無職少年が威力業務妨害の疑いで逮捕された。都内の私立学校を中退したと言われているこの少年が、無職ながら独力でかなり高価な「ドローン」を所持していたり、パソコンを購入したりできたかについては、やはりそこにパトロンの存在があったようだ。

 この少年は騒ぎを呼ぶ動画の生中継配信を繰り返すことで、その視聴者から支持を集めていた。ネットの世界のこのような熱心なファンを「囲い」と呼ぶのだそうだ。文字通り配信者を囲い込むという意味で、配信中にコメントを書き込み煽り立てるなどして、「囲い」は自分の思い通りに配信者を動かすという意味もあるのだそうだ。

 少年は自らを「配信業」と称しているようで、動画配信を自らの生業と思っているそうだ。つまり、それで食べてく職業と思っているわけである。自ずと「囲い」など視聴者の支持を求めて過激な中継に走り、警察沙汰になることが多々生じるようになっていた。そういった警察との応酬シーンも配信するほどの逞しいプロ魂を発揮しているみたいだ。ある意味一途ではある。しかし、著しく視野が狭い。

 今回物議を醸し、警視庁に逮捕されてしまった少年は、実際にはうちの教室に生徒として通ってきてもおかしくない“子ども”である。一方で、この少年を“囲っていた”のは立派な社会人たちだ。資金の提供までをするこの者たちが、実は最も性質が悪いのではなかろうか。自分は火の粉が飛んで来ない位置に居て、煽るだけ煽って操縦者を気取っている。その手の輩も表向きは立派な社会人の顔を持つのかもしれない。この少年が警察に逮捕されなければならないなら、「囲い」こそはその立派な幇助者でないのか。罪深いのはどちらだろうか?

 似たようなことは世の中には他にもあるのだろう。少年に先行きの不安がなかったら、この「配信業」に走ったかどうか?囲うのではなく、向き合う者が今は必要なのではないか?煽る者はいても、その者はけして向き合おうとはしないだろう。少年はいつ真実に気が付くのだろうか?(了)

 

3ヵ月後には戻す話

 ある生徒が、本人にはまるで非はないのだが、級友の一人から疎まれて毛嫌いされるようになるといったことはままあることだ。たまたまその毛嫌いする方の級友の保護者がいわゆる声の大きな家庭であったりすると、話が少しややこしくなることもよくある話ではある。もちろんわが子可愛さのあまりではあるが、大人として状況や事実を見ようとしないのはいささか問題だ。

 その毛嫌いしている生徒に遅刻が多かったりして、なんらかの処罰が取り沙汰されるようになると、これもよくある言い逃れだが、まったく非のない方の生徒が、例えば暴力をふるってくるから怖くて教室に入れないなどと、事実とかけ離れた話をして、その遅刻の生徒がまず保護者を言いくるめるようなことをする。これ自体もどこにでもあることだ。

 ついには保護者が講師に向かってその非のない生徒は凶暴なんだから辞めさせてほしいなどと言い出しかねない。保護者は遅刻の生徒をまったく疑っていない。だからわが子の危機として強硬な要求を繰り返しかねない。やがてぐずぐずしているなら法的対応を検討しているなどとも言い出すかもしれない。こういうエスカレートの形はあり得る。

 ところで、この講師にはもちろん状況は見えている。非のない生徒が危害を加えてなどいないことや、遅刻の生徒が怠惰のために遅刻が直らないことも知っている。当然だが保護者の声が大きいことも身に沁みて知っている。そこでどうするか?だ。さすがに教育の場であるから、非は非であるとの一線は守るだろう。多くはそのように見るはずだし、大いなる常識とはそこにあるはずだ。

 ところが驚いたことに、この講師が声の大きな保護者のその声に負けて、非のない生徒のないはずの非をあったと言い出したらどうだ?なんとかしますよ、と大きな声の保護者に言ったらどうなるだろうか?まずは、逆に非のない生徒に非を認めさせる策に窮してしまうだろう。非はないのであるから、当然そうなる。

 例えば、その非のない生徒はどちらかと言えばスポーツマンタイプのあっさりした性格であるのをみて、「友人が困っているんだから、手を貸してあげようじゃないか。君は悪くはないのだが、見るからにパワーがありそうで君の見た目が怖く見える子もいるんだよ。ずっといつまでも誤解はないと思うんだが、そうだね、3ヶ月くらい隣町の教室に行ってはくれないか。何も非がないのに悪いんだが、ずっととは言わない、その3ヵ月後には必ず君には戻ってもらうから。しばらくだと思って先生の顔を立てて呑んでくれないか。」
 
 この講師の指導の意味を理解して、非のない生徒は隣町の教室に行ったとする。この講師の指導はこの時点では実は間違っているとは必ずしも言えない。しかし、その約束の3ヵ月後にその約束のように非のない生徒を戻さなかったら大きな間違いを犯したことになる。確信犯ということだ。まるで厄介払いでもしたかのように、知らぬ顔の半兵衛を装うようなら、これほどの罪もないだろう。文字通り、非のない生徒に非はないのだ。これは曲げられない筋にちがいない。(了)


同じ看板の違う店の話

 同じ看板が掛かっているお店で、当然のように扱っている商品・サービスが同じであっても、実際にそれぞれに入って比べてみると、やはりはっきり違うと感じることが多い。なにかのチェーン店で駅の北口と南口にそれぞれ某々北口店、某々南口店とまさに軒先並べるほどの近くにともにある店舗でも入ってみてまったく違うお店のように感じることはけして珍しいことではない。

 例えば塾がまさにそうである。同じ塾名でも教室によってがらりと雰囲気が違うということはある。いわく言い難いのだが、違うものは違うのだ。実際にはなるたけ利用者に同じと思ってもらいたいのではあるが、“やっぱり同じだね!”とはなかなか言われない。言われたことはないのではないか。

 ここのところちょくちょく訪ねるある機関もそうだった。どこにでもある、また、なくてはならないその機関は、設置の建前からすると、利用者が利用に際して違いを感じてはならないもののように思うのだが、しかし、繰り返しになるが違うものは違う。

 こちらの要請に応える速さというのか、スピード感の違いをまざまざ感じたのが今回の経験だった。やはりそこはそれ、人なのだろう。人の違いはあまりにも大きいということだ。またぞろこのことがよくわかった。そのお蔭でようやく念願していたことが始まりそうだ。端緒につくことができた。

 同じ看板だがかくも違う。それはこちらの言わんとすることを聞く姿勢に出ている。聞く力というのか、共感する力のように思う。どこまで共感してもらえるかで、何が始まるかが異なる。いかに大切であるかだ。真実に迫るかいなかは、この聞く力にまず成否の鍵がある。さて、いよいよだ。(了)

 

配布資料に日付を打つ話

 生徒への配布物に日付を入れることを忘れてはならない。生徒が内容を混乱せずに整理して理解するには、まず時系列で全体を追認できることが大切だ。前後が曖昧になり、原因も結果もごちゃごちゃになってしまうことが生徒にはよくある。その時、誰がそこに居て何をしたのか?この“いつ?”がとても重要であることは言を待たない。生徒に全体像を理解させる時にはこの“いつ”を整えることが鍵となる。

 まず、始まりは何であったか?その時、そこに誰がいたのか?これは事の全貌を捉える時に常に念頭しておきたい事柄だ。例えばなにか対立が生じた時に、対立が生じた契機は何であったか?このことの把握はその対立の解決に向かうにおいて非常に重要な原点の情報となる。これを押さえていないと、後々の撹乱を招くことになりがちだ。しかし、時系列を押さえるとこの撹乱は最小で済む。事実を時系列で正確に並べることが真実を見失わない最善の防止策だと考える。

 既にその時にいないはずの人物がいるかのごとく、あるいは、そのなにかのアクションの主体でもあるかのごとく言い寄る者には気をつけなくてはならない。その都度、事実間の時系列を再確認することが真実を見失わないための方途だ。まず、再確認すべきはそもそもいつ何があったか?からだ。そこからいつのまにか与えられている予断をこそぎ落とし、事実の時系列だけを繋ぐのである。

 一点に目を奪われると見えなくなっていたことが、時系列を整えて全体を改めて俯瞰することではっきりと見えてくる。それがはっきり見えると、例えばそれまで敵と見えた者が味方に、そして、味方と見えていた者こそが真の敵と見える場合すらあるだろう。もちろん解釈によって歪曲され得る事実であるのか、それともシンプルに揺るがない事実なのかをまず直に見きわめることが前提ではある。客観性はシンプルなものだ。

 生徒に渡すプリント資料には、後々の正確な理解のために日付を打って渡すことが、生徒の将来に役立つ習慣作りの一助となるはずだ。その習慣は、生徒が長じた時に、ある程度正確に事の全貌を再現できる素地を作るだろう。そしてそれは難しいことではなく、誰でも身につけることが出来るのである。(了)

 
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