2015年04月

看過できない話

 ビジネスマンになりたい人の中には、将来出世して社長になりたい者が一定以上いるだろう。政治家になりたい人の中にも、いずれは宰相になりたいと願う者がやはり一定以上いるだろう。しかし、こと教員志望の面々の中に、どれだけ明確に学校長になりたいと思う者がいるだろうか?あまりいない気はする。おそらく、全然いないというわけではない、といった程度ではなかろうか。どうも教員に出世欲というのはあまり似合わない気がする。

 けれども言うまでもないが、学校にも当然、意思決定機関としての組織の長は必要である。どのような人物がその任にあたるかは学校の命運がかかることでもある。だから、やはり押しも押されぬ人物が、その他多くの教職員からの人望を得て満を持して就任するというのが、学校長が任じられるにはふさわしい気がする。本人はいたってその気はないのだが、満場の信任に強く後押しされて“やむなく大任を拝命する”というのが理想であると思える。

 しかし、そういう成り手は現実にはなかなかいない。さらに前述のどちらかというと昇進におおらかな教員の風土もあって、時々、なってはならない人物が校長になることがあるようだ。今月はそんな話がよく聞こえてきた。

 今月初めに茨城県警と神奈川県警にそれぞれ刑事で逮捕された学校長のニュースが駆け巡ったことは記憶に新しい。いずれもその容疑の一部を聞いただけで唖然とするような、あり得ない学校長の行状が明るみに出た。茨城県警の方は私学の現役理事長・学校長の逮捕、神奈川県警の方は元公立中学校長であった。両事件とも限りなく公教育の社会的信用を失墜させたことはまちがいない。まがまがしい事件だった。

 とりわけ、神奈川県警に逮捕された元校長は、26年前に海外の日本人学校に赴任して以来の常習犯であって、もちろんその間に校長在職期間が重なっているという。「現地では人格が変わった」と供述で言っているようだが、別人に成り代わったつもりにでもなっていたのだろう。だが別人になどなれはしない。逆に、驚くほど無防備に自らの行状を記録に残して、まるごと足跡を残しているのはなんとしたことか。結局その杜撰によって海外機関から、廻り回って犯罪立証の事実情報が神奈川県警にもたらされた経緯があるようだ。

 この間、日本ではもちろんこの人物は校長だった。そのような校長が何を言っても偽りとなるだけである。オオカミ少年が校長だったようなものだ。この事件については教育関係者のみならず、社会全体が唾棄すべき事件と捉えていた。情けなかろうがなんだろうが、本当にあったことで、このような人物も確かにいるということではある。教員志望者にとってはあまりに切ない事件であったかもしれない。しかし、教育志望者なら、むしろこのような者がいることを直視できる方がよいのだろう。その時、傍観せず、看過もしない。その覚悟の問題かもしれない。 
それにしても、今月はそんなあきれた学校長の不祥事がやたらと続いた感がある。来月になったらば、もうこの手の不祥事は聞きたくないのだが。(了)

 

オオカミ少年番外編の話

 生徒と関わる中では、頻繁に嘘を言ってしまう生徒の指導をする場面がある。そのこと自体はけして珍しいことではない。事実を見せたくない心理から、事実と異なることを言ってしまうことは、生徒のみならず大なり小なり多くの人にあることだろう。よくある落とし話に『自分はまったく嘘をついたことがない』と答えた途端に嘘発見器の針が大きく反応してしまうというのがある。虚勢を張ってつい誇張したことを言う生徒は、よく見かけるものだ。
  
 釣り好き同士の釣果話は、文字通り尾ひれがついて当たり前と言われる。往々にして互いに相当の大物が掛かったという話になるようだ。これなどは笑い話の類ではある。当事者同士の許容範囲の中であれば、嘘も笑って聞き流されるものもある。ジョークの類もまさにそれであって、ジョークはものによっては嘘といえば嘘というほかないが、授業の中や、生徒との会話の中ではジョークは有用であり、話の潤滑油として欠かせない。しかしながら、この許容範囲というのは案外に分かり難い面もある。特に子どもにとってはこの許容範囲の測定が難しいのである。

 ご存知イソップ寓話の『オオカミ少年』は、子供たち向けにこの許容範囲というものがまったくわからないとどうなるかを描いている。居もしないオオカミが来たなどとふれ廻っては、村人たちが大慌てするのを面白がったというのだから、村人は誰も当の少年の行いを容認するわけがない。許容されない、ついてはいけない嘘の部類だった。イソップ寓話ではオオカミ少年の常習的な嘘にやがて誰も取り合わなくなる。そしてそれがために、防げたはずの本物のオオカミの被害を防ぐことができなかったという結末になっている。

 笑えない話ではあるが、しかし、これならまだオオカミ少年による度が過ぎたイタズラが凶と出た、で済むといえば済む。ところが次のような番外編があったらどうだろう?もし、件のオオカミ少年、誰も取り合わなくなったと不服がって、確かにオオカミは来たんだと、大型犬の足跡を指して自分が見たオオカミの足跡だと言い出したらどうか?さらにその足跡の立会い調査を隣町の村役なんぞに頼んだらどうか?「これが例のオオカミの足跡ですよ。一目瞭然。噂は聞いているでしょう?見るからに凶暴なヤツでして。村になにかあってからでは遅いですから。」こうなると相当のところに行っており、イタズラではとっくになくなっている。

 隣町の村役たちが言うならオオカミが本当に来たんだろう、と普通の人々、善良な村人たちの中にはオオカミ話を真に受ける人々も出る。ところが、そこに当の大型犬が現れてしまったらどうなる?隣町の村役たちに少年から過日示されたものとそっくり同じ足型をその大型犬が目の前で残して行ったらどうだ?もちろん隣町の村役たちは事の仔細を理解することになる。そうなると黙っていないのは隣町の村役たちの方だ。例のオオカミ少年をここに連れて来いとなる。往々にして事実はそんなところとなる。

 さらに、このオオカミ少年が窮まって、「そもそも今までオオカミが来たと騒いでいたのは、遊牧の牛飼いだ」と言い出したらどうだろう?村の代書屋にそれらしくその自分の言葉を書き取ってもらって書状にしたらこう言える、「まずは、この束の書状を見てください。牛飼いのヤツこんなことを・・・。」よくある語り口ながら、普通の善良な村人の中には真に受ける人々が出てもやむを得ないことかもしれない。

 この番外編の解決策を考えるのは生徒指導のヒント探しとして無駄ではないだろう。最も有効な一つは村の広場にでも集ってみんな一緒に話を聞くことだと思っている。個別にではなく、“一緒に”というところがポイントとなる。つまりオオカミ少年も、村人たちも、さらに隣町の村役も村の代書屋も、そして牛飼いも一緒になって話を聞くのがよい。広場で各々が知るところ、聞くところを話せばよいし、それで話が行き詰まったなら、改めてあれやこれやを調べる係に頼めばよい。村にも世間にもその係はいるだろう。事実は係に任せればよいのである。

 もちろん、こんな生徒はまずいないが、この手前くらいのことは時々見かける。そういう時は、関わる生徒全員を上記のように第三者を交える形で一緒に話させるのが経験上最もよい。それぞれの事情もわかる可能性もある。難しい面ももちろんあるが、関係者で自発的、自律的に解決できるという点では一番だと考える。(了)

 

密室のすり替えの話

 教育業界では、新学期の始まる前や、始まってすぐに生徒や保護者との面談の機会が多い。新任の先生としては、早く新しく受け持つ生徒のことを知りたいし、生徒や保護者に自身の人となりも知ってもらいたいからだ。面談はこの仕事には切っても切り離せない指導方法でもある。特にモチベーションを生徒にもっと上げてもらいたい時など面談は有効だ。もちろん、問題点の指導の際にも個別に面談することは多い。しかし、これは安易に使いっぱなしにしてはいけない方法とも言える。

 もちろん、生徒指導だけでなく社会に出ても、たとえば上司との面談は必ずある。よくあるのは社員からの仕事の相談に上司が乗る面談。反対の上司からの面談の方はあまり社員に歓迎されない。社員の問題点の指導の面談を歓迎する者は少ないし、期別の勤務評価に関する面談も一部を除き嬉々として臨む者はいないだろう。上司との面談は緊張する機会が多いからだ。きわめつけは人事異動の話。社員はドキドキものである。それゆえ、こういった際に上位者的な立場で面談に臨む時は、十分に配慮をしなくてはならない。

 密室の個別面談では、よく取り沙汰されるパワーハラスメントなども起こりやすい。そういう難しい面が伴うことなので、上席側は単独ではなく複数、二人なりで面談に対応するとしている法人もある。それから面談の記録をその都度起こして、その面談録を相互に公開することを励行している法人もある。これらは賢察である。どころが一方で、教育現場ではこの点が案外不用意なままになっていることが多い。この現状は本当は危険である。

 そんな危険な事例として、知っている人から聞いた話だ。もう数年前のことらしい。新年度の人事異動の内示について上席に伺いに行ったところ、その場で内示の撤回があったという。当人は、話はそれで済んだと思っていたのだが、数日後再び面談に呼ばれ、今度は、上席者に前回の態度を叱責され、・・・俗に言う修羅場状態になったという。当人には相当のショックとなり、後日辛い影響が出てしまった。出勤できない状況となった。ここまでは世の中でも多々あることではある。だが、この事例の話はこれから本題となる。この事態を見て、なんと初回の面談で自分こそがハラスメント被害を相手から受けたとにわかにこの上席者は言い出したのである。密室でのやり取りだから、声とともに内容が消えたとでも思ったのだろう。そこをついて被害者にすり替わろうとしたわけだ。

 言い出した後が実はさらに尋常ではなかったらしい。その上席者は自身が被害を受けたとする文書や述懐を出すわ、出すわ。それを周囲に読ませる、聞かせる。中には常軌を逸しているのではないかと思う内容もあって、ここまでよく書けると思えるほどのものだったという。もちろん、双方の申し状は真っ向から対立する内容になった。当然そうなる。事実は一つだが、言い分は二つだ。密室ではこういうことが起こってもおかしくなない。また、同様のことは繰り返される可能性が高い。

 しかし、事実はやはり一つだ。その時の話が録音されていたなら、たちどころにどちらが事実かはっきりしたはずである。当節は検察の取調べ可視化が取り沙汰されるご時勢だ。密室では情報操作が行なえるということなのだ。やはり公開化が最も卓効のあるそれら操作の防止法なのだろう。無論、教育現場での面談には録音までは必要ないと思うが、先の面談録を相互に公開するくらいの態勢は整えた方がよい。もちろん、一回々々の生徒との面談内容をきちんと取って、生徒とそして保護者に読んで確認してもらうのである。

 さて、天網恢恢疎にして漏らさずという。実は、上記の事例の二つの言い分のうち事実はいずれの方であったか、客観的に証明できるのだそうだ。なぜ、その時すぐに証明しなかったかは、それなりの配慮をしたからだと聞いた。この配慮の本当の意味をよくよく考えるべき人物が誰なのかは言うまでもない。あくまで事実は一つである。それは自身の都合で動かせない。その動かせない事実を見ることがやはりそういった操作の余地を残さない基本の第一だろう。物事の判断を急ぐ前に、事実を本当に見たのか?自らに尋ねることを忘れまい。(了)

 

育休後の話

 先だって3月末に厚労省から重要な決定についてプレス発表があった。それはいわゆるマタニティハラスメントに関する同省の厳罰化方針が述べられたものだった。最大のポイントは、育児休業の終了などから原則1年以内に女性が不利益な取り扱いを受けた場合には直ちに違法と判断するという内容である。従来の法制よりも格段に踏み込んだマタハラ対策が打ち出された。

 昨年の秋に、最高裁が『妊娠による降格は男女雇用機会均等法が原則禁止しており、本人の同意がなければ違法である』との判断を示したが、厚労省はこの最高裁の判断を踏まえて企業、法人への指導強化を打ち出したようだ。前回の最高裁の判断が出た時にもこちらで話題として取り上げたが、今回はさらにその現実的な浸透の道筋が見えてきたことを大いに歓迎したい。

 社会全般にもちろんそうなのだが、こと教育界においては女性の力は非常に大きなウェートがあり、またとても重要だ。そもそもではあるが、乳呑児を育むことができるのは女性であり、男性にはこのことはどうすることもできない。人を育てることについては、女性はより本質的な役割を有史以前からずっと果たしてきている。そして、その育む力は教育の世界にはなくてはならない力である。ごく自然にそう思える。

 ところが、その教育界で、出産を機に女性教員、女性講師が身分変更を余儀なくされる事態があるようなら、もちろん女性差別であるし、また、それは教育の軽視ではなく遺棄である。そこでは教育はあり得ない。そのような機関が青少年の未来に携わる資格などない。出産を機に不利益があるかもしれないという不安定な教育現場には生命体は残れない。無機物しか残るまい。せいぜい造花の類が置けるくらいだろう。
 
 今回の厚労省の発表では、法人が“業務上の必要性”を抗弁として持ち出した場合は、具体的な経営データの提出を求めるそうで、つまり、よほどの経営難でもなければ認めないということだ。安易な対応を法人はこれからはできなくなった。今回の改正は絶対的に正しい。しかし、忘れてはならないと思うのは、この妥当な改正が形になるまでに、悔し涙を流した女性がとてもたくさんいたということ。肝に銘じておかなくてはならない。とりわけ教育の世界であるならば。(了)  

 
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