2015年02月

周りに子どもがいる話

 先日、とある書店に立ち寄った時に、その書店の壁にしつらえられた広報用のボードに、幕末から明治初期の日本人の姿を映した写真が掲示してあるのが目に入った。目をやると、案外に面白くてついつい見入ってしまった。それは当時、日本を訪れた外国人によって撮影された日本人の写真の数々であった。多くのカラー写真もあって、色彩によって映っている人たちの表情がよりリアルに伝わってきた。隣の写真も、その隣のもと見続けてしまったわけだ。

 とてもシンプルなのだが、いくつかの写真を見た感想は、映っている当時の日本人の表情というのは今の日本人とまったく変わらないというものだ。それはそうだということだが、しかし、今まで教科書などを通して観ていた明治の元勲の写真などは、今の私たちとちょっと世界が違うように思えていた。あのモノクロの、薄ぼんやりとして、見るからによそ行きの顔をした写真には、歴史史料という受け留めしかなくて、それが生身の人間だという意識はほとんど消えかかっていた。

 ところが、この書店に掲示してあった写真は違った。主に庶民の日常生活のシーンを撮っているので、人々がほとんど素のままだ。また、おそらく当時はそれこそ日進月歩で写真技術が進歩したのだろうと思うけれども、段々と短時間のうちに、シャッターを切ったなりに被写体を写し取ることができるようになったのだろう。表情や動作のリアリティが先の教科書とはまるで違っていた。こういうお母さんは今もいるな!と思える女性の写真があり、ふと近所にいそうなその顔立ちはまぎれもない日本人そのものだった。

 言われるほどに社会は進んでなどいない。そんなことをこのお母さんの写真を見ながら私は感じた。本質的なものは何も変わっていないのだろう。思えばそう簡単に変わると考える方が本当はおかしい。人類数百万年の歴史の中では、100年、150年は瞬きの一瞬ですらあり得ない。幕末にも明治にも私たちと同じ日本人が、悲喜こもごもに必死に日々を生きていたのだろう。写真を見ながらそんなことを思った。

 そして、なんとなくではあるが、全部の写真を見ながら思ったことは、大人のそばに子どもがいる写真が多いということだ。どこの国でも子どものことを親や周囲の大人はかわいがるわけだが、そうか、学校が今ほどの設置されていないのだろうし、もちろん塾も今のような形態のものはないわけだから、子どもがそばにいたのだろう。寺子屋には多くの子どもが通っていたと聞いているが、小さい子は行かなかったろうし、子どもはいつも寺子屋に行っていたわけでもないだろう。大人の周りに子どもがたくさんいたのがあの頃なのだと発見したように思った。

 そしてもう一つ。その写真の中の子供たちは、なにか快活そうに見えた。安心感がある感じもある。カラー写真であるせいか、写っている人々のいた空間がふと自分にも感じられたような気がした。こういうことがその時代に言えたのかどうか?この一枚きりの写真の中の世界だけのことだったのか?それはもちろんわからないけれども、どうも、日本人というのはとても子どもをかわいがっていた民ではなかったろうか?そう言えば寺子屋もそういう子どもをかわいがる日本人の性向の産物だったのかもしれない。なんとなく思い当たるような気がしたものだった。(了)

 

芝居を観た話

 先日、ある高校の生徒たちによる演劇発表を観る機会があった。観る前には普通の学芸会的な発表会をイメージしていたのだが、実際の芝居はそんなものではなかった。想定以上の完成度であって、その生徒たちの演技水準の高さに舌を巻いた。また、作品はミュージカル要素もふんだんに取り入れた構成になっていたが、その音響、照明技術なども、一般的な学校学芸会のレベルではなかった。玄人はだし、とはこのようなことを言うのかと思う。

 観客席は、十分に舞台に支配されて、シーンによっては芝居に共感して入り込み、涙ぐむ人がかなりいた。舞台の充実が、観客席を含む劇空間を作り上げていて、そこにたまたま集った人々すべてが、その劇空間の住人であるかのような感覚を持てていたと思う。少なくとも自分はそのようなオリジナルな世界の中にいると感じていた。

 フィナーレの場面の、圧倒的なインパクトは見事であって、幕が下りてもその余韻がしばらく濃厚に残り続けていた。なかなか日常空間の住人には還れない様子の観客が多くいて、また、カーテンコールの役者の生徒諸君も、その相貌に充実感をいっぱいみなぎらせて整列し、高揚感の中にいるようだった。その姿は、役者でもあり生徒でもあり、あるいは、役者でもなく生徒でもない、そのいずれでもあるように思える始原の世界に彼らが立っている印象があった。

 やがて、劇場出口前に並んで観客を送っている役者さん、スタッフさんの前を通る時には、はっきり彼らは生徒に戻って見えた。同時に観客の多くも保護者に戻っていた。最前までの芝居の劇場空間にあった力の存在を逆に感じる。その中で、役者も、また観客もそれぞれ自身のオリジナル性を実感できていた、その力の存在だ。

 聞けば、脚本や、生徒の演技指導には同時代の最先端のプロが指導にあたったのだという。なるほど、レベルがちがったわけだ。優れた指導を受ければ、生徒の到達は高い。なにより当代の一流に直に触れること、このことは想定以上の成長を実現する。生徒の指導は一流でなければならない。改めて襟を正して会場を立ち去った。(了)



ドロップアウトはレジ待ちだという話

 和歌山県の紀ノ川で、小学5年生の男児が刺殺され、容疑者としてすぐ近所に住む22歳の青年が逮捕されたとの報道があった。陰惨な事件であり、とても残念である。少年のご冥福をお祈り申し上げる。犯人の青年についての報道で気に掛かったのは、この青年がかつては明るいスポーツマンタイプの少年だったのに、高校受験の第一志望校に不合格になって以来、どんどん転落して行き、やがて進学先の高校を退学し、自宅に引きこもるようになって、近年は奇行が目立つようになっていたというニュースだ。

 生徒が第一志望校に落ちてしまうのを目撃するのは、そう珍しいことではない仕事にある者なので、失敗のその後、生徒が立ち直れなかったというケースを耳にすると、どうも気持ちが落ち着かない。自分の担当する生徒にもそのことは起こり得る。よくある話のように思えてくる。時折りしももうすぐ公立高校の入試が迫って来ているが、それに向かって意気を揚げる前に出鼻を挫かれた感じがある。生徒が不合格になることには、何度経験しても慣れることはない。

 何かの原因でいわゆるドッロプアウトすることは、いつでも、誰にでも有り得る。もちろん、ドロップアウトしてもダメになんかならない。頭ではそうわかっている人が多いだろう。しかし、いざドロップアウト様の事態に自身が遭遇すると、そう落ち着いていられるものでもない。外聞が悪く、格好悪く感じ、そこから抜け出せなく思え、惨めに思うことの方が圧倒的に多いだろう。無駄な人生だなどと思ってしまったりもするわけである。

 コンビニなんかに昼ごはんの弁当を買いに行った時に、早く食べたくてもレジでお金を払い終わらなければ弁当を食べ始めることはできない。このレジ待ちの間というのは、お金がないのではない。お金がなくて買えないのではなく、レジの順番が来ないから買えないだけである。レジ待ちは待つしかない。そして待っていれば順番はほどなく回ってくる。順番が来さえすればチャッチャッと買えるのだ。ドロップアウトの状態とは、そんなレジ待ちの状態なんだろうと思える。

 ただ、待ちきれないほど長蛇の列ができている場合も稀にある。そういう時に独りっきりで待つのは疎ましい。誰かと話をしながら待つのに比べたら長すぎる。反対に、買った後に弁当をどこそこで食べようだの、他愛のないような話でも誰かとしながら待っていると、案外早く順番はやって来る。相手の分までは払ってやれないが、一緒に待つ者が居るだけで心は軽い。レジ待ちのようなドロップアウトの時に、講師が生徒にできることは、このようなことだと思っている。(了)

 

モチベーションの魔術師の話

 IS国に囚われていたジャーナリストの後藤氏の訃報が昨日の早朝もたらされた。拘束されていた2名の日本人の方は、いずれの方も帰らぬ人となられてしまった。痛ましいばかりだ。
ご冥福をお祈り申し上げる。

 昨日は、東京、神奈川の私立中学校入試が始まった日でもあった。ここしばらくとはうって変わって、首都圏は晴天となった。まだ幼さの残る小学校6年生諸君には恵みの好日となったようだ。ただまあ、受験会場に向かうのであって、もちろん行楽に向かうのとは違う。お日様にも気を緩めることはできない。即日合格発表がある学校では、早くも結果が出る。厳しい結果が出た児童もいる。複数校を複数回受験する児童が大半であり、初戦に敗れても“落ち込んでばかりはいられない”と自らを鼓舞する者もいるわけだ。

 しかし、わかっていても落ち込むのである。そう簡単には割り切れない。ここの場面は塾講師の出番でもある。モチベーションの維持がいかに大事か。試験で一番大切なものはモチベーションの高揚であろう。講師の存在理由は、他でもない生徒のモチベーションの高揚とその維持だ。緒戦で劣勢であっても、中盤、終盤で立て直すことができる生徒には、モチベーションの魔術師のような講師がついていることがある。

 その昔、『やる気のある者だけついてくればよい!』と捨て台詞を残す講師がいた。生徒の闘争心に火を点ける挑発のテクニックのつもりかも知れないが、中には、本気でそのように思っているとおぼしき講師もいた。大変な勘違いである。“先生様”もここに極まれりだ。やる気とか意欲を常に刺激できるのが講師であり、先生だろう。実際にそのことは、誰でもできるような簡単なことではない。やる気のある者だけを引き連れるのは逆に誰にでも大概できる。

 試験に生徒がどのように臨むか?の方に、講師の腕の見せ所がある。なにより、やる気でやることは、人を輝かせるし、磨いてくれるのだろうと思える。もちろん、結果を懸命に追わなければこのことは起きない。結果を懸命に追いかけることで、仮に求めた結果が手に入らなくても、思わぬ幸運に行きあたることがある。それをセレンディピティと呼んだりするわけだが、生徒にそれを必ず残してやれる先生は、モチベーションの魔術師以外にいない。それを思うと、まだまだ魔術が弱いと思うシーズンが始まった。(了)

 
カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ