先日、とある書店に立ち寄った時に、その書店の壁にしつらえられた広報用のボードに、幕末から明治初期の日本人の姿を映した写真が掲示してあるのが目に入った。目をやると、案外に面白くてついつい見入ってしまった。それは当時、日本を訪れた外国人によって撮影された日本人の写真の数々であった。多くのカラー写真もあって、色彩によって映っている人たちの表情がよりリアルに伝わってきた。隣の写真も、その隣のもと見続けてしまったわけだ。
とてもシンプルなのだが、いくつかの写真を見た感想は、映っている当時の日本人の表情というのは今の日本人とまったく変わらないというものだ。それはそうだということだが、しかし、今まで教科書などを通して観ていた明治の元勲の写真などは、今の私たちとちょっと世界が違うように思えていた。あのモノクロの、薄ぼんやりとして、見るからによそ行きの顔をした写真には、歴史史料という受け留めしかなくて、それが生身の人間だという意識はほとんど消えかかっていた。
ところが、この書店に掲示してあった写真は違った。主に庶民の日常生活のシーンを撮っているので、人々がほとんど素のままだ。また、おそらく当時はそれこそ日進月歩で写真技術が進歩したのだろうと思うけれども、段々と短時間のうちに、シャッターを切ったなりに被写体を写し取ることができるようになったのだろう。表情や動作のリアリティが先の教科書とはまるで違っていた。こういうお母さんは今もいるな!と思える女性の写真があり、ふと近所にいそうなその顔立ちはまぎれもない日本人そのものだった。
言われるほどに社会は進んでなどいない。そんなことをこのお母さんの写真を見ながら私は感じた。本質的なものは何も変わっていないのだろう。思えばそう簡単に変わると考える方が本当はおかしい。人類数百万年の歴史の中では、100年、150年は瞬きの一瞬ですらあり得ない。幕末にも明治にも私たちと同じ日本人が、悲喜こもごもに必死に日々を生きていたのだろう。写真を見ながらそんなことを思った。
そして、なんとなくではあるが、全部の写真を見ながら思ったことは、大人のそばに子どもがいる写真が多いということだ。どこの国でも子どものことを親や周囲の大人はかわいがるわけだが、そうか、学校が今ほどの設置されていないのだろうし、もちろん塾も今のような形態のものはないわけだから、子どもがそばにいたのだろう。寺子屋には多くの子どもが通っていたと聞いているが、小さい子は行かなかったろうし、子どもはいつも寺子屋に行っていたわけでもないだろう。大人の周りに子どもがたくさんいたのがあの頃なのだと発見したように思った。
そしてもう一つ。その写真の中の子供たちは、なにか快活そうに見えた。安心感がある感じもある。カラー写真であるせいか、写っている人々のいた空間がふと自分にも感じられたような気がした。こういうことがその時代に言えたのかどうか?この一枚きりの写真の中の世界だけのことだったのか?それはもちろんわからないけれども、どうも、日本人というのはとても子どもをかわいがっていた民ではなかったろうか?そう言えば寺子屋もそういう子どもをかわいがる日本人の性向の産物だったのかもしれない。なんとなく思い当たるような気がしたものだった。(了)