2014年12月

意味がなくてもクリマスという話

 年の瀬もいよいよクリスマス前となった。駅前の通り沿いにイルミネーションが点灯して随分になるが、本当にそれらしくなってきた。やはり期が熟するいということはなんにでもある。その昔、昼飯に天丼を食べようと思った時から、それを口に入れるまでの間に、体が天丼を迎え入れる準備を始めるのだとか、書いたものがあった。味わうとはそういうことだと言っていたのだと思う。自分などはそのような粋人でもなんでもないので、出されたものを出されたなりに食べる日常だが、世の中には、こだわりのある生活というものがあるのだろう。

クリスマスの間は戦争も休戦になる。なにしろキリストの生誕記念日であるわけだから、隣人を愛せと説いた人の誕生日に、殺し合いをするのはまずい。ただ、日本にクリマスがこんなに一般的になったのは、もちろん戦後のこと。私の親の世代は、子どもの頃にはクリマスプレゼントなどもらっていなかった。だからクリマス休戦の意味は、日本人にはあまりわからないのではないか。日本の子どもはこの時期に『♪もういくつ寝るとお正月?』と歌っていたのであり、お年玉を睨んでいたのだろう。

それでも戦後70年を迎えると、クリスマスもそれはそれで、根を下ろしたのかもしれない。浅くはあるが根は下りている。イルミネーションがクリスマスが近づくにつれ雰囲気が深まる感覚を持ってしまっていることが、その根がある証明なんだろうと思う。本当の意味はどうやらわからない。くどいようだが日本人にはなかなかわかりようがない。しかし、何度も繰り返すうちに、それを迎え入れる準備を体がしてしまうようなことが起きたのだと思う。

 本当の意味はもちろんあるが、それがわからなくても出来上がるものがある。“おはようのあいさつ”がそうだし、“ありがとうのあいさつ”がそうだ。『朝も早いですねぇ』、『滅多にあることじゃありません』、あいさつの本当の意味はこれだ。だが、あいさつになって本当に意味はむしろ不要になった。根を下ろした草が新しい花をつけるようなことが起きたたわけだ。文化ということを考える時に、この感覚が立ち上がってくる。ただ、捉えられそうで捉えられないのではあるけれども。(了)

 

仮面ライダーの変身の話

 昨日の総選挙は、事前の大方の予想通りの結果ということだった。世の中は、この結果について淡白な受け留め方に見える。薄味の選挙だった。結果として、日本国民は現政権を支持しているということが、はっきりしたのはまちがいない。その選択が正しいとか誤っているとかではない。これが正真正銘の現実ということだ。現実を現実として受け留めることは、何事につけ初めの一歩である。

 政策論はもちろん大事だが、ここでそれらについて述べるつもりも、こちらにその素養もない。ただ、いつもながら思うことなのだが、内容だけではいくらよくても通用しない場合もある。むしろ通用しないことが多い。内容だけで通用するのは途方もなく頭抜けて際立っている稀有な場合だけではないか。人物眼が見極める人の差異などは、およそ大同小異、どんぐりの背比べなのだろう。そういう解像度の眼差しの前で、正味の内容で差をつけられると考えるのは、少しお人よしかも知れない。

 仮面ライダーの話になるが、初代のライダーから、その後脈々と新ライダーが登場してきて、40年ほど経った今でも、新種のライダーが登場したりしている。もちろん、ライダーは強いから、子どもたちのヒーローであり続けているわけだが、自分の勝手な解釈では、ライダーをヒーロー足らしめている要素の中で、変身動作のかっこよさが案外大きいと思っている。普通の青年が仮面ライダーに変身する際の、あの一連の動きである。 

 両手を意味有り気に交差して回すあれだ。あの動作に入らないと変身はできない。ただ、変身すれば九分九厘勝つのはわかっているから、なんとか変身して欲しい。早く、早く、と思っている時に、あの『ライダー、変身!』という俳優の声と、その後の変身動作が始まる。『やった!やった!これで安心だ。早く敵をやっつけちゃえ!!』などと喜び勇んでテレビ画面に見入ったことだった。

 一つの様式であったと思っている。様式の美しさが、はっきり子ども心を打っていた。強さを活かす様式美ということだったのではないかと今にして思うわけだ。その様式の全体性を視野にきっちり入れているのかどうか?それは、人から何らかの支持をもらいたい時に、相当重要な要素であるはずだ。内容だけに没入してはいけない。今回の選挙ではまたぞろ、そんなことを思った。案外、授業などでも見落としてはいけない要素だと思うのだが、これをまた見落としがちなのも事実である。(了)

 

ネットによる選挙運動の話

 師走の総選挙。投票日まで1週間となっている。ここへ来て急に寒さが深まったせいでもないだろうが、あまり盛り上がっていない感じを受ける。世の中はそう簡単には動かないということだろう。人はパンのみのために生きるにあらず、と言われてきてはいる。その通りだとも思う。しかし、パンが食せるうちは、多少のことは目を瞑ってかまわない。どうも人はそうなのだろう。平時に危機感を持つことができるのは、凡人ではない。

 デマゴーグという古代ギリシャ語がある。よく通っているのは他人を扇動するために意図的に述べる虚偽のことをデマと言っている、その語源としてであろうか。ただ、この語の本来の語源は“民衆の指導者”といった意味であることはあまり知られていない。民衆の指導者たることと、扇動者たることは紙一重ということだ。確かに扇動の才にだけは長けているような人物が時々出てくる。

 衆愚政治という言葉もある。民衆を手玉に取るというようなニュアンスだ。だが、この言葉の本当の意味は、民衆の暗愚を指すのではなく、易々と騙せる、ばれるはずがないとつけ込もうとする扇動家の愚劣の方を言ったものだと思える。当座は騙せても、そう長くは騙せるものではない。いつかしっぺ返しを受けて、それで懲りずにまた繰り返す。案外よく見かけるシーンである。

 今は、インターネットでの選挙運動が解禁されている。さっそく、ある地方の立候補者になりすます者が現れたそうだ。また、小学生になりすまして、今般の解散選挙に批判的な意見を自身で開設したサイトに書き込んだ大学生が話題になったりもした。ネットにはそのような者がどうしても出てくる。もっともこの大学生の書込みには首相が激高したとも言われている。そのことを、まともに受け取り過ぎではないかと苦言を呈する者がいた。

 事実を見抜く力。様々な情報の中から、虚偽と事実を見分ける力をつけることが、教育ということなのだろう。本当の教育は機能しているのかどうか?あまり機能していないのが事実なんだろう。(了)


起点への逆行の話

 2014年も残すところ1ヶ月となった。時間の体感速度は年々歳々加速して行く。誰もがそういうのを聞いて来たが、やはり自分でもそう思う。小学校時代に12月で2学期が終わったわけだが、9月~12月までの2学期は途方もなく長く感じたのは何だったろうか?早く来い、冬休み!ずっとそう思いながら学校に通っていたものだ。ところが今では、まだ来るな、大晦日!の心境になっている。それで嘆いている図などは、滑稽といえば滑稽な話である。

 面白いことに、1日はそれほど短くなった気はしない。1年間があっという間だというほどに、1日はそれほど速くは経たないと感じている。これはどうしたことだろう?それどころか、やっと終わったか、と思う1日もある。それなのに、それが10日となると過ぎ去るスピード感が出てくる。1日をいくつか束ねてまとめると一種の歴史時間になるということだろう。このあたりの感覚には何かがありそうなので、後刻もう少し考えてみたいと思っている。

 さて、decade【デケイド】は英語で10年間という意味だった。10年間という括りは『ひと昔』などと言って、まとまった一定の長さがある期間だと言い習わしてきた。しかし、一方で、『十年一日』などといって、無為に過ごしたようなニュアンスで使う10年間もある。のっぺらぼうの10年間などさながら1日の如しと言っているわけで、中身がないから振り返ったら速いと言っているのだろう。つまり、起点から終点への実時間ではなく、反対の終点から起点へ逆走する時間が速いというわけなのだろう。

 起点に思いを馳せることをなぜか人々は行うのである。人類はそれをずっと繰り返して来た。そして、今も繰り返している。起点へ逆行する際に、あの時あれがあり、この時これがあり、色々詰まっていると遡行に時間がかかる。子どもの時分はそうなのだ。反対に多くを忘れてしまっているなら、思い出すものとてそれほどなくて、あっという間に起点に返りつける。この感覚を『人生は速い』と取り違えているのではないか。思いつきだが、まんざら出鱈目ではないような気もして来た。

 文明が起きて5000年というが、起点へ逆行しようとすると、どうやら人間はそれほど立派なものではないらしい、と思えてくるのは、先ほどの“速さ”と別の感覚に由来するものなのか?アメリカでは差別を巡る黒人の暴動が今も起きている。また、信教の問題で人が別の人を平気で処刑している。世界中に色々ある。こんなものだ。『五千年一日』である。

 だから、もう少ししっかりせねばならない。高望みではなく、自分の足で立っている所で。繰り返すが、2014年も間もなく終わる。もう少ししっかりせねばならない。(了)

 
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