2014年10月

ニュースの話

 今週、二つ気になるニュースがあった。
 一つは、今月16日、文科省から学校現場での生徒のネットのいじめが過去最高になったとの調査結果が出たというニュースだ。この調査結果では、特にLINEなどSNSでのいじめが急増しているとの言及があった。教育現場での生徒のいじめ問題は根深い。わけてもネットによるいじめは、その多くが陰湿だ。陰で仕組むというのか、姑息なものが多い。こういったネットの不健全な活用にどうしたら生徒が手を染めないか、教育界にとって手ごわい課題となっている。

 今月15日、横浜市で高校の校長になりすました者が、もっともらしく生徒指導を装い、twitter上で、生徒の当のtwitterへの書込み禁止を書き込んだようで、それが1万件以上も引用されたそうだ。本物の高校校長と思われたわけである。ネットならではのなりすましだ。これとは別件で、フェイスブックに本人になりすました別人が、本人の名誉を損なうあらぬことを書き込んだ訴訟案件について、この度、なりすました者のIPアドレスを開示するよう、フェイスブック社に東京地裁が命じたようである。

 一昔前の校長先生なら、SNSで生徒指導するなんてまずないだろう、悪戯に決まっているとなっただろう。けれども昨今は、例えば時の総理がtwitterに書き込んだと話題になるのであって、校長も勿論、ネットに書込みをしても不思議ではない、となっているわけだ。校長を騙るなりすましが成功する背景がこのあたりに在るだろう。“まさか”がまさかではなくなっているというのは皮肉なことである。

 さて、もう一つのニュースは、今月23日、いわゆるマタハラ訴訟で、妊娠を理由とする降格人事は、本人の同意がない場合、男女雇用機会均等法に違反するという最高裁の判断が出たことだ。よくあるのは、職場のその他の者に示しがつかないから、などと脅迫的に妊婦となった労働者を追い込むような手口だ。妊婦の良心を逆手に取るような卑劣な手口を臆面もなく使う経営者がいるわけだ。

 少子化が改善しない背景には、このような女性が子供を産みにくい職場の実情があるだろう。今回は病院が訴訟対象になったようである。病院は公益法人だ。また、看護士さんや理学療法士さんには女性が圧倒的に多いだろう。病院には産婦人科だってあるではないか。今回の判決には襟を正して改めるべきだろう。

 教育界においてをや、だ。たとえば学校でマタハラがある、というのでは話にならないだろ。子供と関わる職場そのものだ。組織は悪だ、などとうそぶく向きもあるが、それでも守らなければならない建前もある。では、塾・予備校ではどうだ?公益法人ならぬ営利法人だ。それでも守らなければならない建前が依然としてある。今回の最高裁の判決で世の中が急回転するかは疑問である。しかし、重要な判断であったことは変わりない。

 少しずつ、まちがいにメスが入っているような印象を持った2件のニュースだった。一歩ずつ前進といったところだろう。(了)

 

虫がいい話

 ともすると精神性だけが重んじられ、あるいは、もっと平たい言い方をすれば、座学ばかりを重要視する傾向が教育の世界にあるだろう。これは現実面のことを言っている。体育も大事だとは言うが、それは建前で、本音の部分では座学系科目の方に重きを置いた教育体系になっていることが多い。それは、進学の際の選抜試験が主に座学系の5教科から実施されるからであり、その準備が抜かりなく行われる必要があるからだ。ま、今に始まったことではない。また改めて申し上げることでもない。

 しかし、個人的にこの夏、体調を少し崩してしまい、どうやらこれは入院含みか、などと悩んだ経験をして、やっぱり体だな、と素朴に思ったものだ。本当の本当は体だ。かなり身に染みてそう思ったことだった。早い話が、体を壊せば命はない。他のものは取り戻すことがあっても、失った命は取り戻すことはできない。当たり前のことだ。そう、これが当たり前だ。しかし、教育の世界ではこのことを、ともすれば置き去りにしてしまっている。改めてそんなことを考えている。

  別な話になるが、聞いて『おいしい』と思える話は、感情に訴える話だと思う。感情に訴えることは、読んで字のごとく共感しやすいからだろう。音楽や絵画に感動するのは、感情を動かされるからだ。情操が大事だと言われるのは、それが足りないと無味乾燥になるからだろう。それで思い出しが、少し前に、ある大手予備校の学生チューターがテレビに出ていた。受験生時代にとても勉強ができたらしい。それはけっこうなわけだが、ただ、そのチューター氏の表情があまり動かないのが気になった。生徒と心が通うかどうか、この点はどうなのだろう?ちょっと首を捻った。実際のところ、どうなのだろう?

 座学系の受験準備は大切である。だが、学校ではその他の活動も人としての厚みを育む上でとても大切だと思う。だから、例えば部活のために受験勉強ができない、と言う向きもあるが、どうもそれは、言い訳探しのきらいがあるのではなかろうか?部活のせいで合格できなかったのだ、とか、あるいは学校関係者なら、部活のために実績が出せなかったとしたいのだろう。事実無根の主張とはもちろん言わないが、そうであるなら、その受験勉強をしたい生徒を塾に預けて頂けないだろうか。虫のいい言い草であるとは承知しているのだが、それこそ塾の出番のような気がしている。(了)

 

メタ認知の話

 今週もまた大型の台風19号が直撃して来た。毎週のように何かあるが一向に慣れない。息を潜めてこれが通り過ぎるのを待つのみである。
 自然は、本来危険なものなのだとつくづく思い直しているところだ。すぐに忘れてしまうが、その力の前に我々はひれ伏すしかない。本当はめったに近づいてはならないものなのだろう。太古の人々はきっとそうしていたはずだ。忘れてはならない。

 日曜日の“情熱大陸”という番組を時々見る。先週、この番組で名古屋の学習塾の塾長さんのことが取り上げられていた。その塾は“青藍義塾”という。そして、塾長さんは坪田信貴氏であった。氏はベストセラー“学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶応大学に現役合格した話”という長いタイトルの著書の作者でもある。私もこの本に目を通してみたが、とても面白かった。『なかなかの使い手』と感じさせるものがあった。全編に渡り、描写がヒューマニティに富んでいる。ともすると安っぽく犠牲を強いがちな受験対策にあって、この本にはそれがないと思った。

 内容自体は、そのタイトルがすべて語っている通りで、成績不振だった女子高生が1年ほど勉強に打ち込んで志望大学の合格を手にするという話ではある。ただ、まったく悲壮感がないのがよくある合格体験記と少し違う。それは何かということだ。少し考えてみて、この生徒が犠牲をまったく放棄している点にやっぱり行き着いた。紙数の都合で端折ってしまうが、それは優れて坪田氏の動機付けに違いがあるからだ。生徒の心に火を点けるというのではなく、火が灯るのを待つという姿勢で一貫しているように見受けた。只者ではない。

 ところで、“情熱大陸”の番組の中では、この慶応に合格した塾生のことは一切出さなかった。新たな中学3年生の男子が体験生としてやって来て、この生徒が壊滅的に駄目だった英語が短期間で回復する様子を追い掛ける構成だ。生徒との係りの中から、坪田氏の指導観や人生観を浮かび上がらせるというものだった。たまたまのフロックではないということだ。それを示したかったのだろう。どんな生徒の心にも、必ず火が灯るというわけだ。

 講師という仕事の本質は、メンタルケアであると坪田氏は見抜いているかのようだった。氏が学んだ心理学の理論が、生徒への指導の至るところに散りばめられている。『心理を認識する心理の働き』が講師には重要である。いわゆるメタ認知の深さを氏は問うているように見受けた。“はずさない人だ”といくつものシーンから何度も感じた。”やられたなぁ”、という思いだった。(了)

 

世代の壁の話

 台風18号が最接近するということで、戦々恐々たる感じで台風進路から目が離せずにいる。それにしても今年は台風の多い年である。勢力が強いというが、爪痕を残さぬよう祈るばかりだ。大過なく通り過ぎてもらいたいものだ。
 
 ここのところ、経済指標が軒並み悪くなっている。日本銀行が市中の株式を購入して株価を支えている状況下にある。やや危うい感じを多くの人々が抱き始めている。アダム・スミスが言った“神の見えざる手”が、働いている気配がない。そのうち破裂しそうな、綱渡り的な経済運営下に今はあるのかもしれない。

 『どげんかせにゃならん!』と言って地方の知事になった元芸能人がいた。この言葉の響きには、やけに説得力があると思った。皆、同じようにそう思っているからではないだろうか。今、現に動いていることを変えるというのは、並々ならぬことではある。下手に手をつけると逃げられなくなる。しかし、どこかで切り替えなければ、永遠に変わりようがない。それをどこで切り替えるか、なのだろう。案外、待ったなしの状態に既になっていて、もはや先送りはできない地点に私たちは立っているかもしれない。

 教育が大切でない時代など、どこにもなかったろうけれども、今ほどこの先が教育に掛かっていると、皆に思われる時代もこれまでなかったのではないか。この思いに強く捉えられている。今の世代ではできないことがある。新世代の登場を待たなくてはどうにもならない。あと何世代か掛かるものもあるだろう。現実の壁というかもしれない。この高い壁を越えることができる人物を、今、世の中は待ち望んでいる。

 そういう人物が登場してくる教育が、潜在的にも顕在的にも求められている。そんな力が教育にあるのか?そもそもこの問いに答えることが誰かできるのか?どんな難問でも、答えが在るとわかっていればむしろ易問であって、本当に難しいのは、答えが在るか無いかわからない問題だと言う。教育が世代の壁を打ち破れるか?答えが在るか無いかわからない。だが、解いてみるしかないだろう。できるかできないか、やってみるよりない。少なくとも、教育は変わらなくてはならないことは見えているように思うのだが、さて、どこから手を着けるべきなのか?佇む時間が過ぎてゆく。(了)

 
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