2014年09月

社会的共通資本の話

 木曽の御嶽山が突然噴火し、多くの犠牲者が出た模様だ。ご冥福をお祈り申し上げる。それにしても自然災害の前に、人の儚さを思い知ることがここのところ続く。日本列島は、この夏以来、災害続きだ。自然災害はいつやってくるかもわからず、つくづく恐ろしいものと思い知った次第だ。
 
 韓国の仁川では、アジア大会の熱戦が繰り広げられている。改めてアジアには40億人が住むと聞いて、世界の成長センターとい響きがリアルに感じられる。アジア人は小さく争ってはならない、大きく相和して共にあるべきなのだろうと思える。
 
 さて、経済学者の宇沢弘文さんがお亡くなりになった。1冊程度、著作を拝読したことがある程度の読者に過ぎないが、スケールの大きな思考を拡げる方だと思った記憶がある。重商主義の市場原理主義に批判的で、それを是とする新自由主義を鋭く批判されていたと思う。氏が説かれている社会的共通資本という概念は、私など素人にもとても自然に理解できる考え方だと感じたものだ。何でも市場原理に委ねればよいというものではない。そして、その社会的共通資本の中に、制度資本としての教育が入っていた。教育は市場原理によって、むやみにふるいに掛けてはならないということなのだろう。まったく正論だと思えた。

 宇沢氏が社会的共通資本として提示した中に医療もあった。医療も市場原理に破壊させるべきではない、ということなのだろう。このことで思い出すのは、『患者よ、がんと闘うな』という著作など、きわめて革新的な現代医療への批判を展開している近藤 誠氏である。歯に衣着せぬ、快刀乱麻の鋭い舌鋒で、医療界の真実を述べているように感じ、唸りながら書かれているものを眺めたことがある。著作では抗がん剤療法と外科手術によるがん治療を徹底的に批判されているようだ。それらは医療が産業であることの弊害なのだという論と思える。説得力を感じる。平たく言えば、患者より儲けという医療の現場矛盾を突かれているのだと思う。

 教育産業に身を置く者として、ある意味耳の痛い、胸を突かれるような話ではある。公教育と私教育は分けて考える必要があるのではないか?公共医療と民間医療の違いの如しだと、そんな声が自分の内側から聞こえている。むしろ私教育は一種の嗜好品と考える方が筋が通りやすいだろう。米の飯に対する酒のようなものだろうか。むやみに呑むと中毒になってしまうものでもあるが、一方では百薬の長ともなる。この加減が実に大切なのだと思う。私教育である塾は、一種の贅沢品ではあるだろう。それでは私教育が、社会的共通資本となり得るのかどうか?業界人として腰を据えて考えてみる必要があると思っている。(了)

 

スコットランドの住民投票の話

 スコットランドの独立を巡る住民投票の結果、独立反対が55%と賛成派を10ポイント上回り、その結果、スコットランドは独立回避となった。世界的関心を集めていた世紀の住民投票と言ってよいと思うが、独立賛成優位と出ていた事前のヒアリングとは異なり、安定を求める声が勝ったということなのだろう。スペインのカタルーニャや、カナダのケベックなど、世界には他にも独立志向の根強い地域があるが、そういった地域の住民にとって、相当のインパクトを残した投票だったろう。

 今回、なによりさすがと思ったことは、独立問題が投票という民主的手続きを踏んで賛否が問われたということだった。領土問題は国家の主権問題の最たるもので、ことによると武力衝突を辞さない、戦争止むなしの鋭角的な問題である。それを民主的に粛々と投票結果に委ねたということ。この民度の高さはさすがと言わねばならない。もっともキャメロン首相が投票を了とした昨年時点では、スコットランド住民の3割程度が独立を望んでいるに過ぎないというデータだったそうだ。負けるわけないと思っていたところの、大苦戦だったとも言えるようだ。

 独立賛成派のスコットランド自治政府の首班は、この結果を受けて即時辞任を表明した。この態度もきわめて正しいものと思えた。まさに原語の意味そのままの、ポリシーある態度だ。この辞任により、今後の混乱は最小限に留められるだろう。そこを知るすばらしい指導者であると感じた。

 子供時代、学生時代に、正しい手続きを学ぶことが、教育の役割の柱の一つだと改めて思う。デュープロセスということ。手続きなどすっ飛ばして、自分の思いを遂げたいというは、子供のストレートな思いだろう。それでは世の中は通らないことを学ぶ機会は必要だ。その学ぶべき手続きとは、まとめて本質を言えば、相互の対話ということだろう。意見を述べ合える場があることがまずその前提になる。教室はそのような場になるべきだ。伸び伸びと意見をぶつけ合えばよい。(了)

 

敬老の日の話

 今日は敬老の日だ。ハッピーマンデイが始まる前は、9月15日が定めて敬老の日だった。仮に昭和が続いていたら、今年は昭和89年になる。昭和元年に生まれた方は今年で89歳となるというわけだ。昭和も随分遠くなったということだ。昭和20年代~40年代頃の庶民の日常を振り返るような番組がTVでやっていた。あの時代に働き盛りだった人たちが、今、敬老の日の主人公になっている。

 子供の頃、敬老の日には、少々複雑な意味があった。まったく我が家に固有のことだったのだが、実は、私の父親は昭和8年の9月15日生まれなのだ。敬老の日は、同時に父親の誕生日でもあった。父親は公立学校の教員で転勤族であったから、祖父母とは離れて暮らしたので、うちはいわゆる核家族だった。年寄りは普段家にはいないわけだ。自然と、9月15日に夕食がいつもより豪華になるのは、父親の誕生日だったからだと思っていたし、敬老の日というよりも、父親の誕生日という意識の方がこの日には強かった。

 それから40年経ってみて、父親も81歳の誕生日を迎えた。誕生祝いと敬老が一本になってもう久しい。それでもやっぱり9月15日は昔ながら父親の誕生日と思う日ではあるが、同時に敬老の日であることも頷けるところとなった。父親と同じように自分も核家族を作っていて、しかもふるさとからは遠隔地に身を置いている。親不孝ばかりをしてきたと改めて思う日となった。電話口の父親の声を聞きながら、その思いを強くした。

 地方の共同体が段々と衰退して行ったのは、お年寄りのいない家が増えたからではないかと、根拠なく思ってみたりする。生産年齢を越えた人たちには、付いていけない猛スピードの効率追求社会になったからではないのか?核家族というのは“隔家族”であって、繋がりは色々薄くなって当たり前なのだろう。食べて行くために仕方がなかったという面も確かにあるだろう。しかし、そろそろ考えてみることが必要になったと思う。

 教育の世界を広く見ると、その昔は、“じいじとばあば”に孫達は色々話を聞いたものだろう。本もラジオもテレビもない時代には、じいじとばあばが、その子供時代に祖父母から聞いた話を、同じように孫達に話したろう。じいじとばあばの教育というのが確かにあったろう。じいじとばあばが一緒に住まなくなり、公教育がその穴を埋めているのかというと、クエスチョンが残る。塾をはじめ私教育の方に、それを埋める可能性はないだろうか?

 田舎に電話して、電話を取った母親が、『今日は特別にのど黒とうなぎを買ってきたところ』と言っていた。のど黒は今では高級魚になってしまったが、子供の頃はまだ庶民の魚だったと思う。実家は日本海のそばにあり、夕方には毎日、行商のおばちゃん達が港に上がった魚を売りに来ていた。うちによく来てくれたのは、私の級友の祖母だった。あの家のばあばは、ちゃんと稼いでいたのだ。このおばちゃんから、母親がのど黒も買っていたと思う。母親の話を聞いてあの頃ののど黒が甦って来た。二人がのど黒とうなぎに舌鼓を打ってくれただろうか。遠い東京で念じているだけの息子だ。何かを失ってきたと思わざるを得ない。(了)

 

勇者の話

 スポーツ選手の活躍が続いている。スポーツはいいなあ、と改めて思う。なにより元気をもらえる。テニスの錦織選手が全米オープンで今日現在、決勝まで勝ち進んでいる。テニス界の歴史を塗り替える快挙だ。そしてプロ野球、中日ドラゴンズの山本昌投手が49歳で勝利投手となり、最年長勝利投手記録を更新した。このことがどんなに凄いか49歳になったらわかるはずだ。いつもは甲子園大会ほど日の目を見ない高校軟式野球の中京:崇徳戦は、なんと延長50回まで激闘が続いた。打者は投手を楽にしてやりたいと言い、投手は打者を信じ続けて投げたと言っていた。

 だが、ここのところの一番と言えば、なんといってもボクシングの八重樫選手だろう。彼の先日のタイトル戦は、真に絶賛に値した。この試合、チャンピオンである八重樫選手が迎えた挑戦者は、アマチュア以来216戦無敗。既にプロとしても2階級制覇を達成している、怪物ローマン・ゴンザレス選手だった。あまりに強いため、誰もマッチングに応じないという、折り紙つきの最強チャレンジャーだ。

 まずその挑戦を受けた王者としての勇気を称えたい。守るべきものをいくつも背負って、この決断を選ぶのは潔い。『逃げるより向かっていった方が人生うまく転ぶと思っているので。』こう八重樫選手は対戦を決めた時に語ったそうだ。命の危険を感じるとも言っているのに、恐怖で打ちのめされそうなのに、その挑戦を逃げずに受けた。八重樫選手は、生命保険の掛け金を上げるとも口にしていたようだ。この勇気は本物だ。本当の勇者だと思う。

 試合は、圧倒的に挑戦者有利で進んだ。しかし、チャンピオン八重樫はけして逃げない。一つ打たれたら二つ、二つ打たれた三つと、下がることなく反撃し続けた。そしてあわやのパンチを打ち込んでいた。その姿は、さながら鬼神のように見えた。その闘志からだと思う。無敵を誇る、試合を制しているはずの最強挑戦者ゴンザレスの目に、明らかに怯みがあるのがわかった。八重樫の気迫が、この最強チャレンジャーを下がらせたと見えた。ついに9ラウンド、勝負に出たところを、逆に返されて、八重樫選手はコーナーに沈んだ。

 驚いたことに、リングで一礼している敗者となった八重樫に、ひと際大きな拍手が場内から起こった。おそらく日本中の、あるいはゴンザレスの母国で観ているニカラグア中のボクシングファンが、惜しみなく八重樫に喝采を浴びせただろう。敗れて尚、真の王者は八重樫であると思えた。人々は、本当の勇気に触れる時に深く感動するのだと思う。試合前、まだ幼い八重樫選手の子供たちが『世界一強いおとうちゃんがんばって!』とテレビ画面で言っていた。本当に、君達のおとうちゃんは世界一強かった。八重樫選手は階級を変えて、再度、世界を狙うそうだ。三階級制覇の王者として、また帰って来て欲しい。(了)

 

無聊の話

 夏休みが終わった。振り返ると常に夏休みは速い。子供の頃から今に至るまでずっとそう感じてきた。終わる日の残念感、寂寞感も変わらない。そして、少しの後悔も同様の加減だ。あれやっとけば、これやっとけば、そう思ったときにはもう遅い。よし、来年の夏こそは、と思ったはずが、またやって来た夏も同じような思いを残している。よくも繰り返してきたものと思う。

 生徒たちの夏はどうだったろうか?今年の夏は、家計の財布の紐が硬かったという経済指標が出ている。少なからず自粛ムードの夏だったのかもしれない。天候も例年と比べると台風が早く来たり、豪雨が続いたり、あまり行楽向きではなかった。かと言って勉強に明け暮れるなんてことは考えにくいわけだし、さぞゲームなんかが活躍したことだろう。

 ただ、それも可だという見方がある。無用に自分を追い込む貧乏性の方がつまらないといった捉え方だ。無聊をかこつ、という言葉がある。することがなく退屈な様子というわけだが、それを嘆くという意味も加わる。確かにいつも無限に退屈では耐えられそうもないけれども、時々ならば無聊もまた愉しではないか。自然界でもライオンなどは年中、草原でごろごろしているように見える。ヌーを1頭捕食したら、一体何日喰わずに持つのだろうか?次に腹が減るまではごろごろしているのだろう。逆に毎日獲物を倒すようだと捕り過ぎてヌーがいなくなってしまうかもしれない。大いなるバランスということなのだろう。

 がんがん行くばかりではくたびれるというものだ。時に退屈が大事なのだと思える。その意味では夏休みはかっこうのものだ。この長さなら、適宜、退屈がある。それはそれで浸ればよい。それに負い目を感じるような感覚。これこそが本当は要注意なのだと思える。大物を育てる空間には、何があるのだろうか?無聊は無聊、じたばたせずに寝倒してしまえ!それはそれでおおらかだ。案外、ここから大物が出るかもしれない。(了)


 
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