2014年07月

最盛期の太陽の話

 7月の今時分の太陽が、1年のうちで最もいい太陽だとかねがね思っている。まさに最盛期という言葉がぴったしで、その光は今が一番強く、そして熱く、もの皆すべての輪郭をくっきり浮かび上がらせる。この時期は、朝から気分が高揚し、そのまま前向きな気持ちで一日を過ごせる。そして夜には、密度の濃い一日だったと満喫した心地で床に入れる。この肯定感、命がたぎっている感覚が隆々と湧いて来る。まさに神々しい感じさえする。

 古代、太陽を人々が神と崇めて来たことが得心できる。一つまちがえると、灼熱の光は大地も生き物も焦がし尽くしてしまう力がある。夕方、突如として稲光が空気を切り裂き、耳をつんざく雷鳴とともに、激しい雨に打たれることもある。けれどもまた、嘘のように晴れ上がる。必ずまた戻ってくる。人がこれを神と感じることは、極々自然なことだと改めて思えるのだ。

 この時期、高校野球の地方予選はいよいよ佳境を迎えている。その舞台を照らすのは、やはりこの時分の太陽が一番似合う。全力で球児が闘う姿はまさに熱闘。力を出し切った後には、勝っても負けても涙がある。泥まみれの顔でいずれのチームも涙する。溢れ出るかのようだ。なぜ泣くのか?“神の審判”があったからではないか?そんな想像が自ずと働く。闘い終わって涙している若者たちは、神の審判を前に頭を垂れている姿に見える。であれば、その姿を映し出すのはこの時分の太陽をおいてないような気持ちになる。

 受験勉強で食い下がっている生徒たちもいる。試験までのこれからの展開を考えると、ここらで一旦アクセルを全開にする期間が必要だ。相撲の稽古では、申し合いを十二分にやった後に、さらに最後にぶつかり稽古で胸を借りてすべての力を出し切るようにすると聞く。それが相撲取りの成長に拍車をかけるからだそうだ。勉強にもこれはある。内部でメキメキ音が聞こるくらい、猛烈に学力の芽が伸びる時期がある。そういう成長のステージがある。このステージを引っ張り出すには、“静かなる熱闘”の期間がどうしても必要なのだ。そして、それをするにはこの時期が最もよいだろう。

 驚くほど成長に拍車がかかる。それがこの時期だと思える。なぜなのか?どうしてそうなるか、色々答えがあるだろうが、自分にはそれは、巡り巡ってこの時分の最盛期のお日様の力に因るものと感じられる。生物学のつもりも何もないが、なぜ著しく成長するか力の源を遡れば、ここに行き着く。そのように定められている気がしてしょうがない。(了)

 

“普通”の話

 夏休みだ。海の日に至る三連休とはなっているが、生徒は既に先週末の金曜日に通知表をもらっている。喜んだり落胆したり、いつもながらの光景だ。平和といえば平和。下がった成績に多少のお咎めがあったとしても、それは取り返すことができる。そう、なんのことはない次があるじゃないか。次があればやり直せる。キナ臭い世界では、パレスチナのガザにイスラエルの地上軍が本格的に攻撃し始めた。また、ウクライナ上空で民間機であるマレーシア航空機が撃墜された模様だ。多数の民間人の犠牲が出ている。取り返すことはできない。

 普通の生活を大切にすること。これに尽きる。なかなか難しいことでもある。もの凄い確率の中からこの世に生を受け、本当は明日どうなるかわからない命を、今日この時繋いでいることの実感はあまりない。普通の生活が奇跡の上に成り立っていることには気付きにくい。よくあるのは、失ってからその貴重さに気付くという話。つくづくその一歩手前が分かれ道だ。希望しないと普通の生活は手に入らないものだと見抜けるかどうか。

 さて、では“普通の生活”とは何か?これは様々な捉え方がある。そして、様々でよいとも言える。だから、あくまで自分にとっての“普通の生活”というに過ぎない。それは何か?色々考えが出てくるのを一つに絞ると、自分にとって大切な“普通の生活”は、単刀直入、“次”がある生活だ。その気になれば次の機会に巡り合うチャンスがある生活ということだ。『次も在る』とか、『次が在る』とか。何かの区切りに必ずこのいずれかの思いを抱くことができれば活力が湧いてくる。この瞬間は必ず在って欲しい。

 夏休みは、次が在っていい。『次も在る』し、そして、『次が在る』。ただ、その次を臨める現在を支えているのは何か?これも見失わなければ大した夏になるのではないか。自分だけではない、他人が支えてくれているその図が見えるかどうか。生徒たちがそれを見てくれているかどうか?これが見えている生徒は大きくなる。生徒たちには、まず、ここを見てもらいたい。それがここで言う“普通”と思えるからだ。

 普通の生活は、誰もそうだが、生徒自身も護ってゆくもの。これが壊れる時というのは、他者からの妨げよりも、むしろ自らの破壊の方が数が多いと見える。例えば、他を踏み台にして自分を浮き上がらせようとすることなど。この時“次”は消える。天網恢恢疎にして漏らさずと言う。これはおそらく真実だ。最も厳正な罰が返って来るのは、それは“次”が消えた時だ。生徒たちには次を消させたくない。心からそう思う(了)

 

”償い”という字の話

 とあることを考えている時にふと思った。取るに足らないことではあるが、“償う”という字は改めてよくできた文字だ。これは人の行いとして賞すべきことと読むのだろう。何事か犯したことがあったとしても、それを償えばその人はそれできれいになったのだから、それ以上の責めは、逆に責める方の罪となる。そういうルールの中にあるのだから、はからずも罪を負ったなら、速やかに償いなさい。このようにこの文字は教えてくれているのであろう。

 償いをしなくてはならない、行為の線引きは案外分かり難い。例えば、毎日の食事は、それこそはからずも、他の生き物を殺生して己の身を養っている。これはどうすることもできない人間的な真実であるが、だからといってこのことは償わなくてはならない罪になるのか?もちろんこれは違う。償うというより感謝を捧げるべきなんだろう。

 ではどのあたりの線引きが妥当な線と言えるのか?自分なりにはこう思う。自分の保身のために、誰かを沈めて足下に敷くような行いを為した時だろう。この時はアウトだ。ただし、そのことは誰もが犯しそうになることでもある。一歩手前くらいの仕打ちをしたなどと誰でも覚えがあるのではないか。なにも邪な人間ばかりが行なうことではない。誰でも越えかねない一線である。だが、ゆえにこのことは、厳格に償われなくてはならない。必要な秩序である。

 また当人としても、誰彼にあだをなしたそのままでは、結局それは不幸せのもとだろう。少なくとも他人の恨みを背負って生きるのは過酷なのではないか。いつ露見するのか、いつ正体が捉まれるか、常にそんなことを考え続けるのは、自分ならご免だ。それなら、償ってきれいになる方を選ぶ。その方が文字通り身のためだからだ。苦役を強いられるのは勘弁願いたい。

 こういった時は、相談できる人物も必要だ。当人に気持ちがあっても動けない場合がある。この状況は存外に辛い。相談者の存在は大きい。

 繰り返しになるが、償いという字はなかなか意味深長だ。回復を示していることをもう一度胸に刻みたい。

 

ムークの話

 大学の講義がネットを介して無料で聴講でき、それに加えて確認テストや、それら成果による修了証まで出すシステムが既に始まっている。ムーク(MOOC)だ。アメリカの大学の一流どころが自校の授業を流して始まったようだ。それが世界的な広がりを見せている。一般的には、このムークを歓迎するムードがある。聴講者からすれば、まず無料であることは大きいだろう。例えばアメリカでは大学の授業料が年間で300万円、400万円だのと耳にする。それが、まるっきりタダだとなれば、経済事由から進学を諦めた者など、勇躍ムークに向かうだろう。

 さて、教育関係者にとっては、これはけして浮いた話では済まない。相当の危機感を普通は抱くだろう。特に、授業担当者は内心落ち着かないはずだ。IT革命が奪ったのは、主に反復作業を中心としたオフィスワークと思いきや、教育活動へもそれがにじり寄ってきた。まもなくキャッチアップする風情がある。もしも、このままやがて自宅ですべての講座が聴講できるようになったら、学生はわざわざ大学まで通わなくなるだろうか?そうとも言えるし、そうでないとも言える。むしろ、そうでないと信じたい、といったところだろうか。

 ちょっと底意地の悪い考え方ではあるが、ムークの普及には、畜産を想起させるものがある。自分の実家は和牛の産地でもあって、親戚に和牛の生産農家が1軒ある。この和牛というやつには、それぞれブランド肉ごとに門外不出のものがある。それは、ずばり種牛だ。和牛の生産地には種牛は実に数頭しかいない。つまり旨い肉がその子孫から取れるという意味で有能な雄牛しか、その身分にはありつけない仕組みになっている。つまるところ、やはりこれは“生産”なのだ。合理的な選択のみが許される世界である。

 ムークで流される授業の講師たちは、まさに和牛の種牛に似ていないだろうか。ジョークのつもりではない。その者の流れを汲む“お肉”しか食べられなくなっているという点で、きわめて両者は似ている。もちろんその肉は旨い。ブランドとしてその名を全国津々浦々に轟かせている肉もある。そして舌鼓を打ちながら、卓を囲んで幸福感に浸れるほどの一品もある。確かにそうだ。しかし、1点欠けている視点があると思っている。良質な肉を供給するための生産システムから産まれるものは、専ら消費するための肉しか産み出されない。つまりその子の一代限りで、その先の子孫は残ってゆかないわけだ。

 このことは大きなことだと思う。新しいものを産み出す創造性を育む観点で、何か弱いものがあるという気がする。つまりムークの講師を超える聴講生がどれほど出てくるのか?そこはクエスチョンだ。合理的ではあるが、合理的なものは怪しい場合も多い。ムークへの流れが怒涛の勢いになるのかどうか?それは、おそらく今言った視点がクリアーになった時ではないだろうか。(了)

 
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