2014年06月

再々、ワールドカップの話

 再びサッカーワールドカップの話になる。先週、理由もなく日本チームがコロンビアに勝つ予感がある、確信しているくらいだ、と書いた。しかし、コロンビア戦の結果はご承知の通りであった。日本チームは善戦したが、ミスから失点し、リズムを作れず、常にビハインドの状況で、じりじり精神的にも追い込まれている様子がわかった。勝ちに行くために総攻撃を仕掛けるしかなく、そこで守備が薄くなったところに相手に追い討ちをかけられる展開に終始した。それでも、リードされた前半終了間際に同点としたあたり意地を見せた。気持ちに技が伴うというのは難しいことであり、結局、今大会の日本チームにとって、この技術とメンタルの融合こそ、言わばやり切れずに残った宿題だった。ただ繰り返すが、追いついた時は、強い気持ちが難度の高い技を引き寄せたように思え、宿題はやればできることを証明して見せた。

 ワールドカップは、まだ終わったわけではない。現在もベスト16による決勝トーナメントの熱戦が繰り広げられている。残ったチームの実力は本当に紙一重の差だ。どちらが勝つか、やってみなければわからない。こういった闘いで競り勝つのは、言い古された言葉だが、やっぱり“心技体”が揃うことなのだろう。この言葉にやっぱり行き着いた。まず、舞い上がったり、焦ったり、多少なり逆上したり、あるいは消沈したりしている選手がいれば、その選手のチーム全体へのマイナス作用はきわめて大きいように見えた。およそ、そういったチームが敗退する確率は、7割ではきかないのではないか。“心”は大きい。なぜなら“技”はどんぐりの背比べのように大差はないように見えるからだ。但し“体力”は差異が出ていた。この優劣も勝敗を決する分かれ目に思われた。つまるところ、“気力”と“体力”が、勝敗を決めているように感じられた。

 そして指揮官である監督の気力と体力の差というのも、相当大きいと思える。画面からしか見えないけれども、勝つ監督には、その空気があるように思う。その日、その時のゲームにおける空気であって、次のどこかでの試合では、必ずしも同じ空気を纏い得ない、そういう勝利の空気というようなものを、監督が漂わせていると思った。とんだ素人の勘違いという惧れが甚だ大ではあるが、しかし、その試合における監督の空気、そして、チームの空気というのはどうも在る気がする。そして、それを作る上で最も重要なものが、先にも述べた“気力”と“体力”ではないかと感じた次第だ。もちろん、圧倒的な技量差があれば、気力もへったくれもない。しかし、ワールドカップのような、超一流のチーム同士の対決を分けるのは、繰り返すが“技”そのものではなさそうだ。

 技に気持ちが載る、気持ちに技が伴う、それを支える体力がある。その優劣で勝負がついている気がする。ちょっと、このことを生徒に伝えたくなった。そして、講師の気持ちが作り出す空気のことも、忘れないようにしたい。講師職は人を動かすマネジメント力が必要だとかねがね考えるのだが、その者の気持ちの在り方は、様々に波及する。良くも悪くも波及を止められない。悪く出る場合は深刻な不幸を波及させ得る。結局、それがチームを、教室を、そして組織を破壊する可能性さえある。そんなことも改めて肝に銘じておきたいと思った。(了)

 

ワールドカップの前々日の話

 先週、ワールドカップサッカー日本代表の初戦、コートジボアール戦の敗戦の翌日の感想を書いてから、その週に第2戦目のギリシャ戦があった。なんとか勝利すれば、決勝トーナメント自力通過の芽が残ったわけだが、退場のあって1名少なくなったギリシャのゴールを割ることはとうとうできずじまいだった。ギリシャの堅守と言うべきだろう。歯がゆい思いはもちろんあったが、ここはギリシャの敢闘があったと見えた。

 力の差なんて元々大会に出場しているチーム同士なら僅差しかないわけだし、また、勝負はやってみないとわからないというのが永遠の真理でもある。実際に結果がその原則通りになっているだけだ。日本チームもこの試合は積極的に出ていた。思いをあまり残していないのではないか。実際には負けに等しい引き分けなどと言われているが、思いを残していないなら、それでいいわけだ。勝ち負けは、女神の力が必要で、単に自力があれば勝てるか?と言っても勝負はそうとは限らない。

 ただ、引き分けにより、1次予選の第3戦が消化試合ではなくなったことは貴重だった。まだある。希望がまだあるというのは、それだけで価値がある。第3戦に勝って、ギリシャに勝利の女神が輝けば、決勝トーナメントに残る可能性は消えないですむ。希望は大事だ。希望こそが真に勝ちあるものである。もし、ギリシャ戦に敗れていれば、事実上大会は終わっていた。終わるとは、希望が消えることだ。翻って希望がある限り終わらないということでもある。

 明後日の早朝、その第3戦を迎える。もちろん選手達は最後まで希望を捨てることはないだろうが、客観的に一縷以上の望みはあるとされるゲームなのだから、まずは自分が納得できるプレーを積み上げることだ。それを狙い続けることが希望を繋ぐ最良の方法だろう。あまり余計なことは考えず、それは試合後に飽きるまで考えるとして、今は自分の納得を目指して、力と思いを余すことなく出し切って、爽快な試合後を迎えてもらいたいものと思う。 

 何も根拠はないが、好調コロンビアに日本チームは勝つような気がする。これは希望である。あくまで希望にすぎない、とも言われるかもしれない。しかし、こう言ってはなんだが、希望だけで勝利を予感しているとは思っていない。まさになんの根拠もないが、自分はそれを信じることができる。しかも静かに信じることができる。そういう時は、案外あっけなく希望がかなうことがあると思う。(了)


 

ワールドカップの翌日の話

 昨日はサッカーワールドカップの日本対コートジボワール戦が行われた。結果はご承知のように惜しくも1:2の逆転負けだった。前半1:0リードで折り返した分、残念な思いがことさら強まったと思う。ま、傍観者は何でも言えるわけだが、あの舞台で選手達に勝ってもらいたいというお節介な気持ちは、自身の虚栄心以上のものがあると思っているのだが、それであればなおのこと、試合を終えた選手達に、はっきり賞賛の言葉を伝えなければならなかった。

 しかし、それはなかなか難しかった。なんでもう一踏ん張りできなかったんだ?と選手達を難詰してはばからない、傲慢な自分が押さえても押さえて頭をもたげて来る。勝負は時の運。いや、運もある。いやいや、運というもので説明しないと腹の中に納まらないのだろう。そして、いつのまにか自分も選手になった気がしている。選手に同化するファンというのは厄介だ。そう言えば、ジョン・レノンの暗殺犯は、自分こそがレノンと思うに至った熱烈なレノンファンだったわけだ。ああなる構造は少し分かる気がしてきた。

 終日、この日は落胆していた。ただ、不思議なもので一晩眠って目覚めてみると、だいぶ落ち着いている。これは何だろう?忘却ということなんだろうが、忘却ではすまい、忘却以上の整理がある。なぜなら、思い出せるものによっては、直後より、意味がはっきりするものがあるからだ。浮き彫りになるということだろう。逆に昨日の試合直後は逆上して目がかすんでいたわけだろう。一晩明けてその意味が分かったと思えた。

 一番残念だったのは、また、大舞台では実力が発揮できなくなるという、かねがね日本人の弱点ではないかと疑っているその実際例に昨日の試合がなってしまったことだ。そしてもう一つ。混迷の中で、失敗を怖れてか、誰かの突込みを待ち続ける傍観の姿勢がやっぱり見えた。この二つが、なんの筋合いもないのに、自分を憤慨させた原因だった。考えれば考えるほど、ああだこうだ言う筋合いはないわけだが、どうしても苛立ってしまうのである。

 思うに、それは自分が日本人だからだろう。そして、自分にも本番で思うような力が出せなくて、助け待ちになってアワアワしてしまうことがあまりに多いからだ。それが悔しいと日頃思っているからなのだ。日本チームの敗戦によって、自分の弱点がいきなり晒された感じになったことが、許せないような気持ちにさせたのだろう。厄介だが、昨日のことは結局、同族嫌悪というしかない。

 次の世代、私の子どもを筆頭に、彼らの世代の子どもには、大舞台で余計なプレッシャーを封じ込める術を身に付けてもらいたいと、これは切に思っている。では、そのためにはどうすればよいか?になるわけだが、これについては、堂々巡りのようでも、まず、自分自身が大舞台に立つ経験をもっとしてみて学ぶしかない。それを伝えられる限り次の世代に伝えるしかない。なにしろ、それが自分でままならないので憤慨しているわけだが、でも、次の世代に変わってほしいなら、そして本気でそれを望むなら、苦渋をなめようがなんだろうが、まず、自分でもがくしかない。
愕然とするがそれしかない。次の自身の挑戦しかないということだった。(了)

 

“泥中の蓮”の話

 先だって、覚醒剤使用で逮捕され、自身が作曲した校歌が取り替えられる羽目になった音楽出身の小学校校長の話を取り上げたばかりだが、またしても、小学校の校長がスキャンダルを引き起こした。今回はなんと破廉恥犯が登場してしまった。なんでも女子トイレへ忍び込んで女性教諭を盗撮しようとしたという。まるで走行中なのにタイヤが飛び散ってしまって、車がひっくり返ったようなニュースだった。

 このようなケースでは、“校長も人間なんだ”とは言いたくない感じだ。人間は誰しも同じ過ちをするものだと言ってしまったら、捕まった校長を庇い過ぎる気になる。これはやはり特異な嗜好を持った一変質者の仕業に過ぎない。変質者が校長になったのか?あるいは校長が変質者になったのか?と問われた時に、変質者が校長になった、というのが今回の事件については正解ではないかと思ったわけだ。

 教育、とりわけ学校教育への信用失墜は甚だしいだろう。日本中の普通の先生たちはいい面の皮だ。ひどく迷惑な話だと思う。あんまりに無様で正視に堪えないというのが本当だろう。あるいは、病気だったと言うかもしれない。校長職はそれほどのストレスなのだと。憎むべきはストレスであって、人にあらずと。昔はそんなことできる人物じゃなかったなどと言い出す人が出たりして。

 社会的な示しを付けるために、法の処罰を受けることにはなるだろう。実際に実名報道によって、既に社会的には抹殺されかかっている。一種の見せしめになっている。もちろん二度と教職に戻れることはない。この先どうやって食べてゆくかも定かではないだろう。これら代償も大きい。相当のダメージだ。下手をすると、二度と立ち上がれないかもしれない。

 話は変わるが、例のフウテンの寅さんでお馴染みの映画『男はつらいよ』の主題歌はいい歌だと思う。“俺がいたんじゃお嫁に行けぬ”で始まるあの歌だ。この歌の2番もなかなか味がある。“どぶに落ちても根のあるヤツは、いつかはハチスの花と咲く”というあたり。ハチスとはご存知、蓮の花のこと。古来、泥の中から生えるのに清廉な花を咲かせると、浮世の垢にまみれても、誠の心を失わない人物の喩えに使われる花だ。“どぶ”というのは欲望の巷ということだろう。けれども、根があるなら、どぶでも咲ける花があると言っている。

 では、この“根のある”根とは何だろう?これがなかなか難しく、うまい答えが思い浮かばない。こじ付けかもしれないが、この根とは“信じてみる気持ち”ではないかと思う。まずは自分を信じてみるということだろう。大ごとをしでかしてしまった自分をも、もう一度信じてみるという気持ち。それは根になるのではないか?それが根性と呼べないか?でも、ただ信じさえすればいいほど甘くもないぞと、寅さんの歌は2番をさらに続けて、“意地を張っても心の中じゃ泣いているんだ兄さんは”と言う。ハチスの花を咲かせて見せると意地を張ってはみたものの、その現実の辛さに泣き詫びている、と言っているわけだ。

 今回の不祥事を起こした校長さんが、いつかハチスの花を咲かせたら、この不祥事もただの不祥事ではなくなるというものだろう。泥中の蓮は果たして咲くだろうか?(了)


人がやはり原点の話

 人手不足が声高に叫ばれるようになった。しばしば取り上げられるのは、飲食店ではアルバイトはじめ従業員が採用できずに閉店に追い込まれているというニュース。その道では名のある、業界をリードしてきた大手企業が並ぶ。サービス業なのに人がいないでは致命的だ。お客さんはいるのに、閉店しなければならない状況は、不条理と言えば不条理である。

 アルバイトが採れないなら、正社員に切り替えればいいじゃないか?もちろん、そういうわけにはいかない。アルバイトなど非正規職員を前提に成り立つ経営モデルであることは周知のことだ。まず、利用客が手頃な値段と思ってくれないと、リピーターとなってはもらえない。そのためにはコストを極力抑える必要がある。人件費をいかに抑えるかという発想がどうしても主流になる。正社員は最少人数で何役もこなすことになるわけだ。

 人手が足りずに忙しいのは程度がある。一線を越えてしまうと、従業員が理不尽感を抱きやすくなる。そして、負のスパイラルが始まる。ネガティブな職場環境は職場の人間関係等もネガティブにしてしまう。そうやって人が離れ、また離れ。やがて誰もいなくなった、という洒落にも何もならない状況が生じてしまうわけだろう。

 同時にこのモデルは多店舗展開によって経営の安定とともに、ブランドの確立を図ってきた。顧客の単価が相対的に低いのだから、数をさばかなくてはやっていけないだろう。また、どこにでもあるお店というのは信用がある。圧倒的な露出によって顧客への浸透が重層的になる。同業者間の激しい競争を勝ち残るために、ブランドによる信用と、低廉な価格を維持して顧客を引き寄せる戦略が、今回人手不足が特に深刻な飲食業界のこれまでの姿だった。

 これらの企業の中には過労死した従業員が出てしまっている企業もある。その企業には“死ぬまで働け”といったような、本意は別にあるとしても、ハードワークというより、酷使を助長するととられかねない社是が、どうやら世論に押されて変更を余儀なくされたようだ。はやりのブラック企業の烙印は、一度付くとなかなか消えない。すると、正社員もアルバイトも従業員が極めて採用困難な企業が出来上がるわけである。

 どうやらこのような経営戦略を“デフレ型成長戦略”と呼ぶむきもあるようだ。“総合・・業”化するというモデル。例えば総合飲食業になるということ。そして、このモデルは曲がり角に来たというのが最近の論調のようだ。確かに人々の外食離れは止まらない。とても美味しいレトルトが出ていたりするのはお店にしてみれば脅威だ。自宅でもさらに廉価に手軽に美味しいものがけっこう食べられる時代でもある。外食はよっぽど旨いものを、となる道理がここにある。

 以上のことは、学習塾業界にとって他人事ではない。“多教室展開の総合進学塾”が、地域市場のシェアを奪い合っている。また、最近では、ほぼ無料に近いweb授業が出てきた。価格競争が激化しつつある。そして、この業界もアルバイトの時間講師がいてくれないと困るモデルが依然として多い。斯界も曲がり角にあるのだろうか?

 そうかもしれない。しかし、だからこそ、他の何より人を大事にしなくてはならない。出発点は、そこしかないのだろう。(了)

 
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