2014年05月

ネットの話

 ネット社会と言われて久しい。児童・生徒がネットを見るのは、ごくごく普通のこととなった。土日の天気予報は?と言えば、ぱっぱとネットを開いて、えーっと、ずっと晴れだな、と子ども同士がやっている。総務省によると13歳から39歳までのインターネット活用状況は9割以上になっていて、児童である小学生でも7割弱の普及率となっているそうだ。もはやネットがないというとよほどの不便を感じる時代になっている。

 また、同じく総務省の情報通信白書によると、インターネットへの接続ツールとしては、スマートフォンとタブレット型端末からの接続がここ1年間で倍増したそうだ。それは実感として頷ける話で、つまり、普通のパソコンではなく、どこへでも携行できる端末からのネットアクセスが増えているということ。その気になれば、アクセスは四六時中、24時間体勢になっているということだ。

 いつでも閲覧可能という使用環境の他に、今さらではあるが、もちろんどこの国の何のことでも、世界中のネット情報を瞬時に捕捉することができる。例えば、もう間もなく地球の裏側のブラジルでサッカーのワールドカップが始まるわけだが、日本でネットの前にいれば、さながらブラジルにいるが如く、オンタイムで刻々あげられた情報をそのまま取り込むことができる。返す返す、ネットによって地球は年々狭くなっている。

 それゆえにということになるが、ネットの悪用は社会的な害悪となる道理だ。先日も、例のパソコン遠隔操作事件の被告が、公判中に他人を装い『真犯人』と名乗るメールを報道関係者にタイマー機能を使って送信。その事実がマークしていた捜査員によって暴き出され、保釈取り消し処分となったというニュースがあったばかりだ。被告のネット上の“自作自演”が白日の下に晒されることとなった。この人物はネット上でのその他の脅迫罪の前歴もあるようで、この種の悪用には常習性がつきやすい。

 この遠隔操作犯とされる被告は、“サイコパス”というあまり耳慣れない心理学用語を使って、自身のことを“嘘を平気でつける”人間なのだと、自らの自作自演劇を告白した弁護士に語ったという。弁護士も会見では“悪魔のよう”などと、弁護士としてはいささか過激と思える言葉でこの被告の虚言癖を批判していたが、いくらなんでも悪魔というわけではない。しかし、欠落している視点がある。

 それは、ネット上では匿名のまま正体がばれずに、自分の思惑通りに語ることができるという思い込みだ。ここで欠落しているのは“ネットはあくまで繋がり合っている”というと視点。その気になればアクセスは辿れるものだということ。また、それ以前に自身のメッセージは、自身の正体を語ってしまうということも失念している。昨年、復興庁の役人がブログに復興政策そのものを批判し、アドレスからではなく、その書き込まれた内容から本人が関係者により割り出され、一罰百戒的に懲戒された事例もあった。ネットはそもそもコミュニケーションツールである。伝えるわけである。見え見えだったということだ。

 教育の現場でも、ネットによるいじめは大きな問題になっている。“まさかばれないだろう”その思いがいじめの陰湿さに拍車をかける。しかし匿名のつもりでも、結局はあからさまになることを見損なっている。不用意である。ただ、本当の問題はこの不用意さではなく、“ばれなければ何を言ってもいい”、この考えにある。その姑息さだ。言ってはならないことは言ってはならない。当り前すぎるこの常識が封印された状態。やられたからやり返す、被害意識も通じるものではない。

 しかし、人は誰しもこのような過ちを犯す可能性はある。強くはない。ネットを使っていじめを働いた生徒は、もちろん悪魔などではない。では、どうすればよいか?特別なことはなく、ありきたりしかない。一つは、詫びること。言ってはならなかった、だから詫びる。出来るだけ早いにかぎる。もう一つは、償う。許しを請う、水に流してもらうためには償いが要る。それがミソギの意味だ。社会がそうなっている。公序ということ。生徒にこのことは伝えるだろう。そして、それができない時は、みんなと一緒に教室にはいられなくなるかも知れない、併せてこの程度のことは言わなくてはならないだろう。(了)

 

戻れ!のサインの話

 有名歌手の覚醒剤所持による逮捕のニュースが流れた。その知らせは瞬く間に日本中を席捲した。丁度、自分の青春時代にヒットナンバーを飛ばしていた歌手だけに、個人的にもがっかり感が募った。
この歌手の“万里の河”という楽曲が、田舎から大学に入るために東京に出てきたその年、街に流行していた。“遠く、遠くどこまでも遠く流れる河で”と始まる歌詞が、なにか東京に出たなりの当時の境遇にマッチしたか、折に触れ、何度もこの楽曲を聴いたのを思い出す。もちろん他にもこの歌手にはあまりに多くのファンがいる。その彼が、今は麻薬の禁断症状にもだえながら、配所の月を見る人となっている。

 覚醒剤所持の逮捕ということでは、先週、福岡の小学校の校長が所持と常用で逮捕されたばかりだった。このニュースを聞いた時は、むしろ唖然とするばかりで、なにやらピンと来ない感じになっていた。どのくらいのことをこの校長がしでかしたのか?その辺がわからなくなった。しかし、やはり学校の校長職が覚醒剤で逮捕など、ただで済む話ではない。確かに社会は動揺した。聞けば、なんでも覚醒剤を打っていると仕事がはかどった、というようなことを供述していると言う。

 問題は、この学校の生徒たちだ。小学生にとって、自分の学校の校長先生が覚醒剤で逮捕されたとなったら、正直、その影響がどんなことになるかわからない。その他の教員もどのようにフォローしてよいか現状ではわからないだろう。保護者ももちろん、生徒にどう話せばよいというのか。迷惑な話だ。とんでもない迷惑さ加減だ。生徒達が失ったものは、どれだけか知れない。その想像もできない。

 この校長は音楽教師だったようだ。それで、関係する2校だかの校歌を作曲しているという。もう金輪際、2度とその校歌は歌えないだろう。校歌まで作った校長が、覚醒剤で自ら身を滅ぼした。自分の弱さに負け、煩悩に溺れて沈んだ。この記憶は、変更された校歌を歌う時にも、誰も彼もが思い出してしまうだろう。いつ頃まで思い出すことになるか?それもわからない。皆が背負わされる十字架となってしまったのではなかろうか。あまりにも罪作りだ。

 歌手もそうだが、校長とて聖人君子ではもちろんない。そんなことは、もはや誰でもわかっている。しかし、越えてはならない一線はある。それを越えたらもう戻れない。

 いずれも、越える前に戻るチャンスがあったろうに。戻れ!とサインを出してくれた者もいたのではないか?見落としたなら痛恨事だ。それが招く結末は悲惨しかない。教育の道にある限り、このサインは見落とすまい。大なり小なり誰にもピンチはある。その時、越える前に戻るべきだ。戻れるチャンスは逃してはならない。見逃さなければまだ間に合う。明日に繋がるとはそのことだと思う。(了)

世界卓球の新発見の話

 先週のゴールデンウィークに、世界卓球東京大会があった。日本チームは男女ともに活躍が期待されていて、今大会ではメダルも有望などと聞こえていた。期間中ずっと試合はTVで中継された。近年、卓球人気は徐々に高まりつつあると感じる。野球、サッカーなどと違って、それほど観戦機会はないのだが、今回は東京大会で、自国開催大会ということもあって、大々的に試合中継が行われていた。いくつかの試合を観たが、画面からでも選手たちの緊張や気迫が伝わってくる気がして、見ごたえのあるゲームが多かった。

 卓球と言えば、世界最強の高い壁が中国ナショナルチームである。今大会も男女優勝と、他国を圧倒して寄せ付けない強さが目立った。その昔、私が子どもだった頃は、日本人、日本チームが世界チャンピオンだった時代があったと思う。しかし、その後は世界では目立った結果がなかなか出ない凋落傾向が続いていたように思う。そして、中国との力の差はあまりに離れた印象があった。今大会では女子チームは決勝進出を果たし、その中国と直接対決して優勝を争った。破れはしたが、そしてなお中国の壁は高いままだが、徐々に近づいている感じは受けた。

 それは卓球競技の技術面のことだけではない。卓球はメンタル面が、結果に凄く影響しやすい競技だと思える。ゲーム中は、あたかも精神的なパンチの応酬を互いにしている感じがある。ポイントを取る度に、相手に視線を離さず雄叫びのような声を挙げる。さながら格闘技のような空気が流れる。張り詰めていて、凝視して、そして瞬時に秒殺する。片手を突き上げて雄叫びを挙げる選手の姿を見ていると、メンタルが強くないと、このゲームはとても勝てない気がしてくる。そして、そのメンタル面が、タフさにおいて世界の競合と伍せるように日本選手もなってきたのではないかと感じた。

 圧巻だったのは、女子準決勝、香港戦の平野早矢香選手だ。3番手で登場、5ゲームマッチの2ゲームを連取され、第3ゲームもあと1ポイントで敗退が決まるその時から、なんとそのゲームをひっくり返し、続く2ゲームも連取して逆転勝利を果たした。これは強かった。もちろん、メンタルのことだ。これほどメンタルの強さを見せた日本選手というのは他にいたか?とそう思わせるものがあった。卓球に限らず、あるいはスポーツに限らず日本選手、日本人は国際舞台で歯がゆいくらいに萎縮して、実力のじの字も発揮できない姿をよく目にしてきた。平野選手にはかけらもそれがなかった。

 こう言ってはなんだが、新しい日本人像をこの世界卓球で見た気がしている。今までは背景に怯えて、ゲームの前に敗れ去ってしまう日本人が多かった。平野選手には『負けたらどうしよう?失敗したらどうしよう?何を言われるか?』といった思いは微塵もなかったろう。絶体絶命のピンチの時こそ、強気に攻める。その集中力の高さ。繰り返すが、あまり見たことのない姿だ。この姿は、世界舞台で闘った経験が作り上げるのだろうか。平野選手の活躍を見て、新しいものを発見した思いだ。一つのモデルが自分の中にもできた。(了)

 

“わだつみのこえ”の話

 今日は、子どもの日。端午の節句だ。できればもう少し晴れ上がってもらいたかった。東京は曇り空が拡がっている。鯉のぼりには、やはり五月晴れが似合う。青空を薫風に乗って舞ってこそ鯉のぼりだとは思うが、こればっかりはやむを得ない。ま、晴ればかりが空ではないか。

 目下日本は、ゴールデンウィーク真っ最中だ。連休にこの時期ならではの意義があると思っているのは、生徒にとってこの連休が、新学年、新学期一色だった4月に一呼吸入れる効果があること。ちょっと深呼吸を入れてみる、肩を上げ下げしてみる。そのようなクールダウンは、浮き足立っていたり、ざわついていた心を整える。心にこそ整理、整頓、清掃といった3Sが必要だ。“手入れ”、“羽休め”は大事なものだと思う。

 さて、3日の憲法記念日を睨んでのことだと思えたが、連休が始まった時に、有名な戦没学生の手記を集めた『きけ わだつみのこえ』に所収されている、木村久夫さんという方の稿に修正があったこと、また、新たな遺書全文が見つかったことの報道があった。『きけ わだつみのこえ』と聞くと、自分にはある感覚が甦ってくる。懐かしい本でもある。

 少年時分にこの本を読んだ時には、稿を寄せている学徒兵各位に対していわば兄事する感覚があった。しかし、今回、木村久夫さんの稿に改めて目を通してみると、あまりに若い青年の姿が浮かんでくる。そこにあったのは、学究の徒を志す鋭敏な感覚の青年の姿だ。20代で世を去らねばならなかったとは、あまりに惜しまれることと改めて思ったことだった。

 ところで、今回発見された修正箇所とは、木村さんが陸軍の組織批判を述べている箇所等だそうだ。編集に悪意があったとは感じないが、しかし、あくまで本人の稿をそのまま置くべきだったものと思う。その削除稿には次に引用するような内容があった。『・・・ことに軍人社会、およびその行動が、その表向きの大言壮語にかかわらず、本髄は古い中世的なものそのものにほかならなかったことは、反省し全国民に平身低頭、謝罪せねばならぬところである。・・・』『・・・軍人が今日までなしてきた栄耀栄華は誰のお陰だったのであるか、すべて国民の犠牲のもとになされたにすぎないのである。・・・』『・・・精神的であり、また、たるべきと高唱してきた人々のいかにその人格の賤しきことを、我、日本のために暗涙禁ず能わず。・・・』等など。

 木村さんは元陸軍上等兵であった。『きけ わだつみのこえ』に稿を残したその他の学徒兵の多くが戦死、戦病死であったのに対し、木村さんは戦争終結後、軍事法廷でB.C級戦犯として死刑を宣告され、刑死した点において異なる。捕虜収容所でのスパイ狩りのような事件があって、通訳として尋問などにあたった木村さんが戦争犯罪とは言いがたい冤罪に近い嫌疑で刑死を余儀なくされたと書いてあった。その一方で、大変重大な事実として、木村さん達に事にあたらせた司令官の参謀は刑死を免れている。“尻尾切り”そのものだ。木村さんの陸軍という組織への憎悪は推して知るべしと思えた。

 “解釈改憲”であるとか、“集団的自衛権の容認”であるとか、ここのところかまびすしく聞こえてきている。今日の子供の日、鯉のぼりや兜飾りを出して、健やかに成長して欲しいとどの家の親も祈ってやまない、その子どもたちが、いつか来た道のように兵隊になって、何のためとも分からぬもののために命を落とすことになるかもしれない。親であり、また教育の道に身を置く者として黙っているべきか。“わだつみ”に伺わなくてはならない。声を挙げる時が近づいていると感じる。(了)

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