2014年04月

国際化の手前の話

 オバママ大統領が国賓として日本訪問中は、厳戒警護態勢ということで、日頃利用する駅のゴミ箱が期間中は終日塞がっていて、一定の不便を感じた。その不便さは、ある意味、国賓を迎えるということはそういうことなのだ、と実感させるものだった。何かあってからではやはり遅いわけで、他国の最高指導者の身に異変があってからでは、取り返しはつかない。それは避けなくてはならない。やはり最優先のことだと思われる。


 さて、訪問の主な目的は首脳会談であったわけだが、今回は何が話されたか?どんな進展があったか?なかなか報道されない感じを受けた。国益を担う、というような大きなテーマのことはよくわからない市井の市民にとっては、国賓として訪問することに意義がある、という以外に、今回の訪問の成果は割りと分かり難いように思える。


 ただ、そのような様子を遠巻きに見ながら、今回も感じてしまったのは、日本国民の代表各位は、果たして堂々と相手国の代表に意見を述べていただいたのか?という問いだ。どうなのだろう?その分からなさ加減が、ともすると、日本の国益を堂々と主張していないのではないか?と多少なり疑いを残すところになっていると感じる。国と国で意見の隔たりは普通にあって当たり前で、頑なに拒絶するのも、逆に何でもイエスマンとなっても、物事は前に進まないのが通例だろう。


 言うべきことを言う、というのは、なかなか難しいこと。特に組織の中では、上意下達で指示命令が流れていき、それに絶対服従を求める気風が日本の組織風土に残っているわけだ。学校でも、塾でも、放っておくと生徒は常に指示待ちになっているのを見かける。そして一度指示が出ると黙々と取り組むのだが、その指示に疑問を投げ掛けることは許さない空気が残っていないだろうか。国際化とか国際水準とかよく言われるようになったが、その第一歩は“言うべきことを言える”関係作りではないか?ここができないと国際化も何もないのではないだろうか。


 そして、これからはその点への教育の機能強化が求められるは規定のことだ。多くの人は、今の日本が世界の中で国としての評価を高め続けているとは感じていない。それはなぜだとなった時に、いくつもある原因の中で教育の問題を唱える者が出るだろう。たぶんそれは少数ではない。教育が節目を迎えているのは事実だろう。


 その昔、先生、教員は独裁者だった時代もある。その気風がどこかに残っている間は、国際人を育むといくら叫んでも徒労になる気がする。これから求められる教育に問答無用の独裁者は似合わない。言うべきことが言える生徒が出てくるための、初歩の初歩がこのあたりにある気がする。(了)

弟子に育てられる話

 きりかね細工という、仏像や仏画に金箔を使っての非常に繊細な文様を施す職人さんに、長谷川智彩さんという名匠がいるのを先日TVで知った。TVでは、彼女が仏教細密画を製作している画面が映されていたが、とにかく凄い腕だ!金箔を重ね合わせるだけでも大変な作業と思えたが、なんと、さらにそれを髪の毛よりも細く切り出して、仏画の文様として貼っていくのだという。おそろしく緻密な作業がきりかね細工だった。彼女のその技の素晴らしいこと。これぞ匠と思うほかなかった。

 その長谷川智彩さんは、修行時代を経て26歳の時に独立することにしたそうで、その時、師匠であった松本明慶師から、独立は条件付での許可だったそうだ。その条件というのが、聞いてみてちょっと呻るものだった。職人の独立と言えば、一人前になった証に違いないが、しかし、客観的には独立時点ではいわゆる初任者でもある。なにしろ、これからどうなるか?成功できるか、泣かず飛ばずとなるのか、それはわからない。そんな独立時に、師匠の松本師は長谷川智彩さんに『独立するなら弟子を持ちなさい!』という条件を出したと言う。


 思いもよらない条件だ。しかし、これは優れた師匠の進言だったわけだ。色々理由があるのだろうが、自分に最もよく理解できたのは、弟子がいればいい加減なことができない、という理由だ。これは本当にそうだよな、とよく納得できた。弟子も食べさせなくてはならないわけだし、そのためには、なにより稼がなければならない。必死で売れる作品を作り続けるしかない。弱音などまちがっても吐けない。これほどの縛りはないだろう。逃げられなくなる。


 そして、弟子は最初の批評家でもある。いつも近くに居て、場合によっては寝食を共にする師弟の形態もある。掛け値のない正札の評価を弟子ならできるだろう。ましてや仕事の上での手抜きやら、不正やら、弟子こそが一番最初に気付くわけだ。そこには緊張感が生まれる。弱みを見せられない辛さもあるが、だから踏ん張れるのだ、という意味で自分の推進力にもなる。弟子の視線とはそういうものだろう。


 松本師の条件とは、弟子に育ててもらいなさい、というものだったのではないか。卓越したものの見方だと思う。それは実際にある。


 講師・教師にとって、今の時代、生徒を弟子だと考える者はほとんどいない。確かに生徒は弟子ではない。しかし、講師・教師が生徒によって育てられる一面はある。生徒が居てこそ鍛えられる自身がある。そして、それは生徒が居なければ何者にもなれない、ということでもある。まさに真実だと思う。(了)


『良かった作り』の話

 ある福祉関係者の方が次のようなことを言われているのを読んだ。文章の中でその方は、自身の仕事を『良かった作り』と呼びたいと。この方は介護業界の方なので、デイサービス等の利用者であるお年寄りが『生きていて良かった』と心から思ってもらえるようなサービスを提供したい、そのような趣旨でこの言葉を使われていた。サービス業の本当の目標が、この言葉によってとてもよく表現されている。

 現実の介護の世界にはそれほど詳しくないけれども、別なところで、介護施設のことを『現代の姨捨山』などと書いている文章があった。自身の心身のコントロールがうまくできなくなって、家族と一緒に暮らせなくなっている高齢者の方が、家族と共に過ごしたい本当の思いをうっちゃって、諦めを抱きつつ過ごすのが介護施設だという言い方を、そこではしていたと思う。
 
 現実は優しいとは限らない。また誰も老いを免れることはできない。作家深沢七郎さんの『楢山節考』を少年時代に読んだことがあり、さらにそれを原作とした2本の映画、木下恵介監督と今村昌平監督のそれぞれの作品を観たことがある。原作も映画も、読み終わって、観終わって、なんとも言えず切ない気持ちになる。老婆が自ら前歯を欠いて『飯が食べられない』と言うシーンなどは、忘れようにも忘れられない。

 楢山節考の舞台の寒村は、白米が腹いっぱい食べられる世界ではない。今村監督の映画の中のシーンでは、子供たちが白米のことを『シラハギサマ』と言っていたのが印象に残っている。滅多にそれは食べられないのだ。そんな日々の中で、前歯を自ら欠いた老婆は“なぜ自分の食欲がいつまでもあるのか?”そう問うているような気がした。そして“口減らし”を果たすために、自分から山へ行くと息子に告げたわけだ。“姨捨山”とはその山のことだった。

 『良かった作り』で、利用者が『生きていて良かった』と本当に思えるような介護施設を営むことは、けして生半可なことではないと思える。利用者にも職員にも、様々な葛藤、格闘があるだろう。それらの彼方に『良かった作り』はあるのかもしれない。至難のこととは想像するが、しかしさらにこう思う。確かに姨捨山は地上にまちがいなくあったけれども、一瞬でも喜びを味わえて良かった、とそこに高齢者が踏みとどまることができる“家”が地上にあると証明していただきたいと。

 さて、話は教育のこと。塾も学校も、教育の道はやはり『良かった作り』にしか存在理由が見出せない。そして『良かった』と生徒、保護者から言われない教育は、やってもやらなくても同じではない。それはやらないより悪いのだ。改めて肝に銘じたいと思う。(了)

 

アンテナの話

 桜の満開を迎え、世間が花見に繰り出そうという時に、まさに花冷えの寒さとなった。春の気分が一瞬にしてどこかに飛んで行ってしまった印象がある。落ち着かない春先となっている。しかし、天候まで新消費税のせいにはできないか。前回、散々言ったのでこのことについては口を慎むこととする。

 学校では入学式がたけなわである。子供の成長は、親にとっては百薬の長だろう。現実の苦難があっても、子供の成長を目の当たりにして、そこに明るい光が当たってくれると、その瞬間、親は大概のことを忘れることができるだろう。特に初めてランドセルを背負う子供の姿などは忘れようにも忘れられない。これに親は参るのである。背中一杯にランドセルが張り付いているようなあの姿だ。昔も今も変わらない。

当の生徒にとっては、生身の現実が始まるのが学校であり、小学校1年生には1年生なりの現実が始まる。しかし、あのランドセル姿によって、子供が夢の世界にいるような錯覚に親はとらわれがちである。というか、錯覚したがっていると言う方が正確かもしれない。このギャップが実はしばしば大きなギャップであったりする。そしてそのことに困るのは多くの場合子供の方だ。

子供には子供なりの気遣いがある。小学校1年生には1年生なりの気遣いがあるように思う。ずばり親の夢見心地を壊したくないというそれだ。『学校でのよかったことをママは聞きたがっているな。』。子供だってすぐに気付く。すると、『学校で悪かったことは聞きたくないのかな』となって、有り体に親の耳に心地よいことばかりを子供も言おうとするようになる。

 子供の本音が消える。これは子供にとって少なくとも窮屈なことだ。居心地はけしてよくはない。なかなか難しいことだと思える。しかし、本当に難しいことがもう一つある。少々複雑なのだが、窮屈だからと言って、親が子供に何も聞かなくなるのはこれまた子供は嫌なのだ。繰り返すがなかなか複雑なものだ。生徒の本心は割り切れない場合が多い。可愛いばかりではない。

 塾の出番がこの辺りにもあると思っている。生徒が本心を明かせるような存在になるということだ。複雑な心理のバランスを生徒が整えることができるように、生徒が自身を見失わないように、塾の講師に張るべきアンテナがあるとすれば、この微妙なタイミングを拾ってくるアンテナだと思う。ランドセルが隠してしまう生徒の本心を拾えるアンテナだ。このアンテナの感度がない場合は、講師としては一流になれないと思う。生徒の気持ちを動かすことはできないだろう。(了)
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