2013年11月

刺激を与え続ける話

 講師に求められるリーダーシップとは何か?これはなかなか奥が深い問い掛けだ。色々な角度からリーダーシップのあり方が唱えられると思う。わかりやすいのは、生徒に服従させるあり方。力関係で生徒を縛る形は、講師に一見リーダーシップがあると見えるが、一種の仮死状態というか、精神的な昏睡状態に生徒を追い込んでいる点は、教育よりも調教の色彩が強く、適切なリーダー像と言い難い面がある。要は生徒にいわゆるトラウマを与えて、行動を規制しようという動き方に、成長を志向する教育者の魂を見ることはとてもできないのだ。

 そこで、生徒の心を縛って動きを封じる者というより、その心を動かし、躍動させる力を持つ指導者のことをリーダーとして捉えてみたい。だから心が動かない状態はリーダーシップの不在と判じておく。一般に、心が動かない状態を退屈というのだと思う。退屈はフラストレーションを生じる。このフラストレーションは次第に蓄積し、やがて耐えられないほど厄介なものになる場合もある。退屈は罪と言える。心を動かす者とは、具体的には退屈させない者のことであり、したがって、退屈させない講師は、リーダーとしての有資格者たり得るのだと思う。

 さて、授業で生徒が退屈している素振りをみせているようでは、そこでは何も行われていないに等しい。とにかく油断をすると、生徒はすぐにマンネリ感を抱いてしまい、瞬く間に飽きてしまう。そしてこのときの生徒の嫌悪感は相当なものになっている。“飽きる”という人の性向は、かなり根深いように感じる。人類的には、種としての進化が停滞しないように、造物主の意思によって、進化を常に促すためにプログラミングされたものが飽きるという反応なのだろう。

 つまり、このままでは進化はないと予感した瞬間、人はその環境を厭うようにできている。逆に、この飽きる感覚があればこそ、人間が進化を続けることができたとも言えるのだろう。その意味では、飽きる反応は人間存在にとって根源的なことではある。しかし、生徒を預かる講師職にとっては、生徒が飽きやすいというのは厄介なことに違いない。講師が飽きられたら講師ではない。その時は、リーダーシップのかけらも見出せなくなっているはずだ。

 リーダーに必要なものは、結局、フォロワーを刺激し続ける力量だ。刺激がなくなると、飽きて退屈するのがまさに生徒であり、講師のリーダシップとは、とどのつまり生徒の刺激力だと思える。この力こそ、講師に必須なものだ。そういう意味では生徒の心に刺さる言葉を講師は授業においても投げかける必要がある。そしてさらに、ただ居るだけでも生徒に刺激を与え続けることができれば、講師としては免許皆伝ではないかと思える。生徒の刺激になり続けるリーダーシップを講師は求められている(了)。

 

ラクダの背中に藁一本の話

 スポーツ競技では、微差で敗れるシーンがよくある。大接戦の末、後一歩及ばず、などと実況アナウンサーが絶叫するような場面は、観ていて実にスリリングだ。先日テレビ観戦した女子バレーボールのワールドカップでは、日本チームが全勝のブラジルチームと対戦していた。このゲームの第一セットは、そのとてもスリリングなゲーム展開となった。大会は各大陸代表チームのリーグ戦方式で、最近はバレーボールもサッカーのような勝ち点制を採用しているらしい。それで、当日のブラジル戦で、もしも日本チームが3セット連取のストレートでブラジルチームを下すと、なんと久々の国際大会での金メダルを獲得できる可能性があるということだった。

 これが接戦を呼んだ。第一セットは日本チームにとって金メダルへの分岐点だ。狙いたい!そして、それにはうってつけの立ち上がりとなった。5ポイントくらい一時リードする展開で序盤が進んだ。何をやっても成功するような、そんな感じの時間帯すらあった。『あれ、もしかしたらやるかも』観る者にそう思わしめるスタートダッシュだった。けれどもやっぱり敵もそのまま易々とは勝たせてくれない。ブラジルの追撃が猛然と始まった。こういった時に押し返せる力は凄い。アウェーにもかかわらず、じりじり追い上げてくる。さすがだ。点差はなくなり、もつれた展開で終盤を迎えたが、マッチポイントを先に取ったのは日本チームだった。この時点でまだ2点差ある。これは第1セットもらったぞ!多くの者がそう思えただろう。しかし、よくある皮肉であって、本当に難しいことだが、マッチポイントで浮き足立ったのは日本チームの方だった。

 明らかに動揺があった。選手が『勝てるのでは!』と一斉に思った瞬間だったのだろう。この時に、血が騒ぐわけである。そのことで日本チームの選手たちが、ボールから意識が一瞬離れたせいもあるのだろうが、それにも増して貫禄というのか、この危機一髪の場面でブラジルはここ一番のサービスエースを取った。そしてこれで勝負があった。その後、何度かマッチポイントが両チーム移動し合ってシーソーゲームの様相が続いたが、結局、ブラジルがこのセットを取ったのだった。日本チームの数十年ぶりの世界大会金メダルはこの時点で幻となった。その後は続く2セットを立て続けに簡単にブラジルに取られてしまい、終わってみれば、あっけなく3-0のストレート負けを喫した形となった。やはりあの一本のサービスエースで勝負があったのだと思える。勝負の世界で勝ち切るには常に高いハードルがある。特に『勝てるかもしれない』という血の騒ぎというか、胸騒ぎというのか、あの感情を克服するのは並大抵のことではない気がする。

 それでは、第1セットの接戦は嘘だったのか?というと、もちろん嘘ではない。1セットを取られて糸が切れたようになってしまったが、実力は第1セットに見せた通りで、ブラジルとも実力面ではさしたる差はない、と言い出す者が出かねない混戦とはなった。しかし本当だろうか?バレーの技術論等はわからないが、ブラジルと日本にはまだまだ相当の力の開きがあると見える。あくまでスコアーは微差だったとしても、その微差の中にこそ大差がある。そして、この微差の中の大差こそが、しばしば“越すに越されぬ大井川”となって、自分たちの前に立ちはだかるのである。例の“ラクダの背中に藁一本”というヤツだ。荷物がもうこれ以上積めない限界を背負っているラクダの背中に、藁一本が加わると、その藁一本分の重みによってラクダの巨体がくず折れるという意味であった。いかにこの藁一本が重たいか。その藁一本が積めるようになったなら、それは大変な力量がついた証となる。藁一本を上乗せできる講師になりたいと思わないか?生徒のわずかの変化は大変化なのだ。生徒がそんな変わり方をしてくれる講師のことだ。(了)
 

内定の話

 当エデュケーショナルバンクで応援中の私学志望の方が、とある法人から正教員として内定が出たとの報告をしてくれた。新卒の方なので、正教員はハードルが高いかもしれない、そう思っていた矢先である。安堵とともに、じわり嬉しさがこちらもこみ上げてきた。いつもながら、合格した、という報告からは、その方の良い意味の素直な心根が伝わってきて、こちらもとても素直に嬉しい気持ちになれる。やみつきになる嬉しさと思っている。

 教員と生徒は教室で出会うもの。そして当り前だが、教室は空間だ。未経験の方は、特にこの空間をどのように作ればよいか、なかなか要領を得ないのが常である。“もてあます”という言葉の通りに、空間をもてあましてしまい、自身がまず、その空間から自らを置き去りにしてしまう傾向がとても強く出る。そんな時は、生徒が巻き込めない、そういう感懐をすぐに持ってしまいやすいが、正確には、むしろ、自身が教室空間からドロップアウトしているので、生徒に追いつけない、手が届かない状態になると言うべきだと感じる。

 上記のような状態は、一定の経験を積まないと、なかなか克服できない。だから、擬似的な授業空間でも、ないよりは遙かに修練になるので、模擬授業を通じて、教室空間をどのように作るかを一定期間研究するしかないだろうと思ってきた。実践できないと意味がないのだが、理屈もないと実践への取り掛かりも作り難いわけだ。そうやって、なんとか空間作りに挑んで、空間を操縦することが授業であると得心すること。いつも研修の初めの一歩はこれで、最後の一歩もこれだと考えている。

 その空間作りの点で、未経験の方がさらに陥りやすいのは、授業というパフォーマンスの意味を取り違えることだ。授業は新知識を伝えるために行う、という考えが強くなり過ぎると、“授業は知識を伝えるためにのみある”と取り違えが出てしまう。時間内で進度をきちんきちんとることに没頭しがちだ。ともすると、“そのことだけ”になってしまうきらいが出る。進度をとることはもちろん大事だが、それが授業の真の目標ではない。落ち着いて考えると誰でもわかることだけれども、しかし、のめりこみ状態というか、視野が非常に狭くなる未経験の時代には、ほとんどの方がこの状態にあるといっても過言ではない。

 授業の目標は、その授業空間で生徒が実際の変化をすること。生徒が変わらなければ、どんな知識を説いても、単なるお題目にしかならない。これは本当のことなのだが、講師にはそれが分り難い段階がある。しかし、生徒の立場では一発でよく分かるのだ。この授業は味気ない、付いていく気がしない、ドロップだ、と生徒は見極めをすぐにしてしまう。あっという間のことだ。これは、講師が生徒を観客だと思っている間は改善しないと考えている。講師の中の、自分が演者であるという錯覚が原因だからだ。これは完全に錯覚である。なぜなら、授業の主人公は、その場合、講師になってしまうからだ。授業の主人公はあくまで生徒でしかない。つまり、生徒はけして観客ではないわけである。忘れてならないことは、授業においては生徒もパフォーマーであること。この意識を講師が持っていない授業は、まず授業とは呼べないものになるだけだ。

 この地点まで、この気づきができるあたりまで、相対的にはわずかの時間の研修で案内するつもりでいたのだが、それもできたか、どうか。しかし、見事に内定が決まった。すべてはMさんの意識と努力だった。おめでとう!(了)

新しい自分の話

 普段の意識の中で『今までにない自分をみつける』、それに気づくことは、できるようで相当難しい。わかっているけれどもわからない、というようなコンニャク問答が始まる。どうも根っこのところで、新しい自分が必ずあるのではないか?そう思い続ける習性が人にあるように思うが、そうすると、わかるようでわからない自分をみつけるには、とにかくもがくしかないわけで、必ず困難な“いばらの道”を行くしかないことになる。各民族に固有の通過儀礼といわれるものがあるのは、それを通過しないと新しい自分がみつけられないと思われているからだろう。子供から成人、社会人への節目を迎える時など、普段の世界にはない、とても困難な、苦痛をともなうような通過儀礼がいたるところで行われている。

 圧力とか熱が加わらないと新しい自分はみつからない、そこで加圧と加熱が始まる。だいぶ昔になるが、例の有名なニューギニアの原住民の樹上ダイブの様子をテレビで見て、もし、降下中に足に結んだツルでも切れたら、命はないだろうと肝を冷やした記憶がある。あれは典型的な通過儀礼であった。ダイブをしていたニューギニアの青年たちだって、あの高さから飛び降りるのは相当の恐怖に決まっている。その大プレッシャーに勝てよ、というわけだ。すごい圧力のかけ方である。一方でそれが終われば、一人前の成人として周囲から認められ、爬虫類よろしく見事に脱皮した、新しい自分に出会うこととなったわけである。

 生徒たちは、進学のための受験が通過儀礼だ、などといわれることがある。遙か昔、自分が生徒だった頃にもそのように言われていた覚えがある。もしもその通り通過儀礼であるならば、受験勉強などは乗り越えるべき苦痛であればよいのだろうか?しかし、それはどうもしっくりこない。受験が通過儀礼というのは、こじつけの感じが強い。むしろ、生徒たちの通過儀は現代ではなくなったと言ったほうがピッタリくる。だから、つるっと大人になれてしまう。そして大人の自覚は持ちようもない。それが現代の子供事情ではあると思う。

 その日を限りに生まれ変わる、というのはそうそうあるものではない。そして、新しい自分と言っても、それは変身した後の仮面ライダーでもないだろう。ではいつまでも変われないか?そんなことはもちろんない。気がつかないうちに新しい自分になっているのが本当のところだ。今まで金輪際できなかったことが、できるようになる。すごく難しく感じていたことが、簡単に思えるようになった。それらこそが『新しい自分との出会い』に他ならない。当人が新しいかどうか判別できなくても、それはやはり新しい自分に違いない。生徒たちには、そういうできるだけ多くの新しい自分をみつけに教室にやって来る。素朴なことで十分だ。何も樹上から飛び降りる必要はない。当り前だが、できないことを、できるようにするチャンスをどれだけ提供できるかだ。(了)
 
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