2013年10月

対人感受性の話

対人感受性の話

 対人感受性という心理学の視点がある。曰く、相手に関心を持ち、その心理の裏表の把握を通じて、相手の気持ちを汲み取り、相手の立場に配慮して相手に合わせた話し方ができて、それにより良好なコミュニケーションが取れる、そのような気遣いができる人物を対人感受性が高い人と言うらしい。そう言われて、確かに人によってその対人感受性の高い、低いは実際にあるように思える。もちろん今は、対生徒の感受性を問題にしている。生徒の微妙な変化を敏感に察知できるかということなのだが、その把握力に高い、低いは必ずある。

 教育の道に進みたい人には、この対人感受性については、特別の“こだわり”を持ってもらいたいと感じる。先生には、やはりなくてはならないだろう。しかし、一方で、この対人感受性というのは、ともすると過敏になりやすいものでもある。生徒の思いがむしろわかり過ぎて、生徒に対して迎合しているように見える反応をしがちだ。どうしても注意できないとか、相手の意に背くことを極度に避けてしまう傾向が、実は忍び込みやすい。さらに、他人の評価を気にし過ぎる傾向を持ちやすいとも思える。反応の出方によっては、幾ばくか厄介さも併せ持っているのが対人感受性というものだろう。

 身も蓋もなく言えば、だから、両面あってよいのだと思う。人の気持ちがよくわかるということは、わかり過ぎることでもある。そう思いなすべきだ。まぁ、美味しいところだけもぎ取ろうとしても限界があるだろう。過敏すぎて内向的になることは、対人感受性の高さの裏づけとも言える。直近のニュースで、心の病により休職した公立学校の教員の数が、ここ4年連続で5000人を超えていると報道があった。かなりの数である。まことに無責任な分析ではあるが、このことは、教職に就くものの対人感受性の高さに無縁であるとは思えない。諸歯の刃であろう。場合によっては、その刃で自らを切ってしまうものなのだろう。

 ただし、対人感受性が極めて低いというのでは、生徒の指導は粗いものとなる。だから、これはやはり高いに越したことはない。そしてあと一点を加えたい。それは、その感受性でインプットしたことは、必ずアウトプットするということだ。インプットに偏してしまう傾向が過敏ということだと考える。インプットに対して、テニスでストロークを返すように、必ずアウトプットで打ち返すことが大事であると思う。さしずめ、それは対話だ。対話によってインプットしたものは昇華することができる。何かをアンテナが拾ったら、速やかに対話という行動に移るべきだ。間髪を入れない方がよい。それが均衡点というのか、調和の取れた生徒指導になるように思える。もっとも、まずは、対人感受性を遙かに高めてからの話とはなるけれども。(了)

映像授業の話

 映像授業はもう常識になっているだろう。というのは、正式な講座を映像だけで提供することは珍しがられないという意味だ。大学予備校の中には、実際に講師が教室で行う授業をライブ授業と呼び、しかし、そのライブ授業は全講座の中で、もはや少数となった予備校もある。そこでは、多くは映像授業になっているので、映像授業の方がむしろ“普通”なのである。もちろん、それはそのニーズが生徒にあるからで、生徒もこれといって不満を漏らすわけではない。だが、映像授業などなかった世代の者の中には、映像授業だけで本当にいいのか?と生徒に聞いてみたくなる者がかなりいるだろうと思う。

 実際に、映像授業が広く流布し始めた初期の頃には、映像は明らかにサブだった記憶がある。やっぱりライブ授業の方が“本筋”であり、映像はその補強を行うものだという設定だった気がする。それが、インターネットメディアの急速な技術革新とその普及により変わった。特にネット配信の設備環境が圧倒的な低コストで整うようになったのは大きな変化だろう。それによって講座料の低価格化も進み、デフレ下の受験生事情に好感され、少子化による生徒募集の困難さによる講師人件費の負荷に耐えられない法人の事情とも相まって、映像授業は加速度的に普及してきた。そして、いまや映像授業が“本筋”になり始めている。

 一方で、映像授業の普及により、たまに存在した劣悪授業というものは、数としてはかなり減ったのであろうと思う。選良というか、淘汰の過程が必ずあって、より人気のある講師の映像が残るしかないからで、その分、品質は一定レベル以上になる。もっとも、劣悪でない、普通よりもある程度よい授業さえも放逐された感がある。講師にとっては受難の時代が始まったと言えなくもない。実力講師でなければ講座を持てないわけで、その実力の線引きのラインがどんどん上の行になる。そういう厳しさが実際に出てきている。

 確かに映画は100年この方、人々に愛されてきている。映像の力というものはまちがいなくある。日本のアニメーションは、世界中にファンを拡大していると言う。これも映像に魅力があるからだ。そして、面白くて力がつく映像授業も数多くある。だから、これだけ隆盛になっているわけで、内容がなかったら、こうはなっていない。むしろ映像の方が遙かにわかりやすい題材もある。よく言われる理科の実験場面の解説や、珍しい自然現象のシーンなどは、明らかに映像に分がある。映像授業は、やはり有用である。

 ただ1点あるのは、映像授業の前後には空白ができやすいことだ。その空白とは、ずばりモチベーションの隙間である。例えば生徒に映像に辿り着くためのモチベーションを、その映像が与えないわけではないが、しかし、それはライブよりも強くはならない。ライブでは、何も語らずとも、アイコンタクトがよほどのものを相手に伝えるのに比べて、映像授業にその力は乏しい。人にも、その他の動物と同様のスキンシップによるコミュニケーションが欠かせないのだろう。実際に触れ合うというのではないが、人に向き合うということが、やはりスキンシップなのだ。生徒の身になると、映像授業の力に、これら人ならではの働きを加えることが、ぜひ必要だと思える。(了)

 

授業で忘れる話

 酒造家が目指すのは限りなく水に近い酒だ、そう聞いたことがある。自分はそれほど銘柄にこだわる方ではないが、なるほど日本酒などは、高級と言われる酒ほど確かに口当たりも柔らかく、爽やかで澄んだ味がする。そんな味に出会った時は、そうか、するとやっぱり杜氏は水を目指しているんだなと思う。もちろん酒は水にはならない。わかりきったことだ。しかしそれでもそれを目指すわけである。さながら、絶対に神にはなれない人間が、当人が思ってか思わずか、なんぞについては神に近づこうとするのに似ている。理想がなくては、やがていたたまれなくなることにも、どこか通じる気もする。

 ところが、どうみてもそんなの関係ないだろうという酒もある。至極アルコールの強い、そもそも強烈な匂いを放っている酒などは、造るにおいて水を目指した痕跡などまったく感じられない。酒は酒なんだと言わんばかりである。鼻をつまんで一気に盃を空けたりして飲む酒もある。味わうというより、そのものずばり酔うために飲むかのようだ。神など目指すこと自体が間違っている。人間はその分を知るべきだ。理想など、ああだこうだ言っても無駄だ。そもそも酔うために飲むのが酒で、それ以上でもそれ以下でもない。偽善はよせ、とでも言いたげである。そして、これにも一理ある気がする。

 授業について考えている。あくまで水を目指すべきか、それともアクの強さを押し出すか?どちらがよいのか?迷いが出る。講師はあくまであるべき自分に徹するべきか、いや、ありのままの自分の方がよいのか?その加減というのか、つまり、どこまで作るかということが、なかなかの大問題だと感じられる。“演じる”とはどういうことなのか?そう言い直しても同じだが、この問いはよほど手強い。というのは単純な二元論では割り切れそうもないからだ。演じることの対極は“ありのまま”とは必ずしも言えないなど、始まってしまうと収拾が付かなくなる。ありのままというのは、ありのままという演じ方なのだ、また演技には無意識の演技もある。etc、etc。要は、どうしたら、もぎたての授業になるか?と考えているのだが・・・。   
 
 “演”という文字は、これを『エン』と読むのは音読みで、訓読みすることはあまりない。『演ばす』、『演べる』、『演う』と書くと、それぞれ訓読みでは『のばす』、『のべる』、『おこなう』と読む。そもそもこの“演”には、『外に拡がって流れ出す』というような意味があるそうだ。したがって、『のべる』とか『おこなう』と使う場合は、自己充足しない何事かを、他者に向って『人目につくことをする』という語感で、人前で話し、役目を果たしてゆく、という意味となるようだ。講師というのは、まちがいなく自分だけでは何も始まらない、生徒に向って演じる者、演者としてのみ存在する。そうであれば、上記の『どこまで演じるか?』という問い自体が意味をなさない。生徒に向ってパフォーマンスに取り掛かった瞬間に、もう既に演者になってしまうからだ。
 
 演者が、どこまで演者であることを忘れるか?こう問い直すべきかもしれない。ある意味“忘我”ということだろう。講師が講師であることを忘れたら、生徒も生徒であることを忘れるかもしれない。これは、一線を越えるなどと悪く出てはまずいことではある。ただ、採れたての授業感が残るような、新鮮な授業は、なにかを忘れることが必要な気がする。そして、何を忘れるべきかで、また、迷うわけである。(了)
 

4回転捻り“シライ”の話

 先日、ベルギーのアントワープで行われた体操競技の世界選手権から、嬉しいビッグニュースが飛び込んできた。男子体操チーム最年少、17歳の白井健三選手が、床の種目別決勝において、居並ぶ各国の床スペシャリストをおさえて、見事優勝を果たした。しかも2位に大きく水を空ける圧勝だった。圧巻の完勝とはこのことだろう。白井選手は現在高校2年生というから、まさにわれわれの生徒と同年代だ。それが早くも世界の舞台でNO1を射止めるとは!このことはやはり快挙に相違ない。

 優勝の演技をTVで観た。あの世界大会の大舞台にまったく動じていない様子にまず驚いた。そしてその舞台で普段の実力がいかんなく発揮できていることに二度驚いた。さらにそれが他の誰にもできない、白井選手しかできない大技であると知って三度驚いた。いくら体操選手でも床演技で4回転捻ることができるというのは想像したこともなかった。もちろん前人未到。あの“シライ”と名づけられたフィニッシュは神技に近い。その大技を最後にあっさりと、なにも大したことはないと言わんばかりの様子で、ぴったり着地を決めてきた。こんなことができる秘密は何だろう?誰もがそう考えるのではないだろうか?

 白井選手はやはり天才にちがいない。ただ、ご両親も体操選手、そして2人の兄たちも体操選手というパーフェクトな体操一家に生まれ、お父さんの経営する体操クラブに3歳から通っていたというわけで、やはり持って生まれた天賦の才に、絶好の環境がプラスアルファして白井選手を作り上げたのだろう。なるべくしてなったというか、天才たることに耐え得る天才というか、それが白井選手とみえる。なにかどことなくモーツァルトの話を思い出す。子供の頃、白井少年は(いやいや、今も白井少年なのだが)、TVで一流選手の床のスーパー演技を見ていて、『あ、これできるな』と言った翌日には、既にその技を実施でやっていたそうだ。

 もう随分前になるが、月面宙返りという鉄棒の下り技を編み出し、当時世界を驚嘆せしめた塚原光男氏が、別なところで白井選手についてコメントしていた。『今まで、床演技で4回転捻りができると思った選手はいなかったろう。できないと思っていたからできなかった。しかし、白井選手のみは、それができると思ったわけです。だから、できた。』というような意味だった。さすがに自らも大選手だった方ならではの深い言葉と思う。以前、陸上の『1マイル4分の壁』というのをこのブログで取りあげたことがある。1マイルレースで4分を切ることは人類には不可能と長らく信じられてきたが、ある革命的ランナーが独自のトレーニングでこれを破るや、その後、次々と多くのランナーが4分の壁を破ってきたという話。おそらくは“シライ”も、意外に早くその他の選手が決め技に使うようになるのかもしれない。3回転半捻りの壁は超えられたことを皆が目撃してしまったからだ。

 そして、なにより、“新人類”などというと、皮肉なことに古くて廃れた言葉となってしまったが、白井選手のようなタイプの日本人の少年は、今までそうはいなかったろう。正真正銘の新人類と言えるのではないか。『今日は楽しもうと決めていて、本当に楽しかったです。』と言い切ってしまうあたり、あまり他に思い浮かばない。しかし、あれだけ日頃の裏づけがあって、しかも本番を心底楽しまれた日には、大概の選手はかなわないだろう。ならば、こうやって白井君という少年が目撃されて、次々と白井君のような少年が日本にたくさん出てくるだろうか?そうは行かない気もするが、ぜひ期待してみたい。(了)
 
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