2013年09月

叱る言葉の言霊の話

 生徒に指導するというと、まずイメージは叱る場面が思い浮かぶかもしれない。自分が生徒だった頃が思い出されて、そういえば、あの時あれで怒られた、それで叱責されたと、いくつかのシーンが浮かんでくるかもしれない。先生になって、指導として難しいのは、どちらかというとではあるが、褒める指導より、叱る指導の方が難しいと感じる。ここで叱らなきゃと感じる場面で、ズバッといけるかというと、そうも行かない時がある。しかし、そこで行っておかないと、実は後ではもう叱るチャンスは取り戻せない。それもわかっているのだが。げにげに、その場で叱るのが大事と言われる理由もよくわかる。

 ではなぜ叱れないのか?これについては、意気地がないとか、柄ではないということを平気で言う人がいるが、しかし、いくらなんでも“それを言ったらおしまい”ではないかと思う。どういう柄でも性格でも、叱るときは叱らなくてはならない。それはそうだ。ただ、その時に、生徒に嫌われたくないという思いが顔を覗かすことはある。このことの割り切りはなかなか難しい。叱る方が実際は好かれることもあるのだが・・・。叱る場面をそのような迷いで逃すことは本当になかなかなくならない。

 日頃からちょっとしたことでも注意するようにしてみたことがある。すると、意外な効果だったが、それ以前よりは、ここぞの場面で叱れるようになっていた。日頃のやり取りがないのに、大事なときだけガツンと行くというのは、そう都合よく行かないのだとわかった。有名な落語の『小言幸兵衛』のような、いつも、なにかにつけうるさいけれども、それが笑い話に繋がるような、そういうスタンスで生徒と接することで、自分なりには改善した気がしていた。

 しかしそれでも、これは本物ではない、とも感じていた。それでも、叱れないときは叱れないことがあったからだ。小言ならぬ小型の幸兵衛になったつもりで、細かいことを日頃言うようにしてから、嫌われるのでは?という迷いは減っていたのだけれども、それでも、尚、叱れないときがあるわけだった。『そんなことは、人としてどうなんだ?』と生徒に投げ掛けてみたときに、瞬間遅れくらいで、その同じ言葉が自分に返ってくるのが普通だろうと思う。叱るときというのはそうだ。実は、その自分に返ってくる言葉に負けてしまいそうに思うとき、叱るに叱れなくなっていた気がしている。『生徒にしたり顔で叱っているが、ならば、お前は言うほどの者なんだな?』こんな言葉を添えて、自分が生徒に投げた言葉が自分に返ってくる。これはきつい。

 言霊という。もちろん“ことだま”だ。日本人の原点にはこの発想があった。言葉には不思議な力が宿るという捉え方だ。叱る言葉には、はっきりこの不思議な力が宿るのだと思っている。やっぱり一種の言霊だ。この言霊を、そしてその力を自分が背負えるかどうか?強烈に悩むことがある。それが、叱るに叱れない自分の正体だった。言葉に出したら、本当にそれを自分が背負わなければならない。背負う覚悟が試される。(了)
 

探求してなんぼの話

 プロスポーツの選手は、やはり練習法の開拓に余念がないと聞く。考えると、例えば選手が若い頃と、ベテランの域に達した時と、同じ練習が有効であるとは素人でも思えない。それぞれ自分のその時点の現状に合わせた、最もベストな練習法を模索するわけだろう。印象に残っている中に、古い話だが、大相撲の元横綱隆の里のウェイトトレーニングが思い浮かぶ。怪力この上ない、昭和50年代終わり、自他共に無敵と認めた横綱隆の里は、素質はありながら、なかなか芽が出ない力士だったそうだ。そこで自身の強みをさらに伸ばすために、当時の角界では異端とされかねなかったウェイトトレーニングに勇躍取り組んだ。そしてこの熱心な研究成果が、角界無双、金剛力の横綱誕生として結実したわけだ。

 また、隆の里の宿敵とも言えるライバルに、大横綱と言われ、後に国民栄誉賞を受賞した千代の富士がいた。実は、この最強とも言われた千代の富士に完全に勝ち越しているのが隆の里だった。他の誰もが歯が立たない屈強の横綱千代の富士が、隆の里には完敗を続け、控えで顔を見るのも嫌だと言わせたほどだという。それは、上記の新トレーニングで手に入れたパワーで、同じく力が売りの千代の富士にけしてひけをとらなかったことが勿論ある。その上、隆の里はライバル千代の富士の相撲をビデオに撮って、なんと、そのビデオテープが擦り減るまで見続け、千代の富士の弱点の研究に余念がなかったという。たぶん、明けても暮れても打倒千代の富士の研究で頭が一杯だったのだろう。ライバルを圧倒できたのには理由があったわけだ。

 一方でこの隆の里は、若くして10代で糖尿病を発病し、相撲取りとしては致命傷にもなりかねない、この病気との闘いを土俵の外では続けていたという。まずこの病気について学び、自身で治療法を研究して、節制して、ついには隆の里は糖尿病に克った。確か、その本人の闘病、克服経験を本にして出版していたと思う。ここでも非常に研究熱心な方だったことがうかがえる。自分などはこの力士は好きな横綱で、舌を巻くほど強い隆の里の相撲を見ながら、その強さの秘密が、他の誰も手をつけていなかった練習法に積極的に挑戦したことにあったと知り、また、食べなきゃいけない世界で、食べてはいけない病を克服した精神力の賜物だったことを知り、非常に感じ入った記憶がある。

 他にもスポーツで結果を残した選手からは、等しく同じような探究心が伺える。自分が強くなるためには、それは欠かせないものだ。探究心が採るべき探求法を導いてきて、その探求法が実践に繋がって反復されたときに、想像もできなかったくらい見違える選手が誕生したりする。それは職業人たるプロスポーツ選手なら飯の種にかかわることだ。だから、より最適な鍛錬法を探り出すために、時間もお金も惜しまず掛ける。勿論、プロスポーツの世界だけではない。どんな職業の道でも探求してなんぼ。世界で有名なトヨタのカイゼンも、職業人として当然の探求の結晶として側面があるだろう。われわれの立つ教育の道でも、要はどんな分野でも、生徒が探究心を深める機会を提供できたかどうか、ここに成否が掛かるのではないか。とすれば、まず、教師や講師に探究心が求められる。先生は、やっぱり探求してなんぼだと思う。(了)


Serendipityの話

平成25年9月16日(月) Serendipityの話

 『算数なんかやったって将来何の役にも立たない。』勉強嫌いの子供が親にこんな口答えをするシーンがドラマであったような気がする。よくありがちな台詞だ。『学校の勉強なんか社会に出てから何の役にも立たない』と言ってしまう大人も時々いる。これらを聞いたとき一面の真理をついている気がするのか、『でもな、・・・』で始める言葉は飲み込まれそうになる。一瞬で気を取り直して、『それはそうだけれどもな・・・』となんとか切り返し始める大人もいる。世の中に出てみて、確かに三平方の定理があのとき自分を救ってくれた、なんて経験はまずあり得ない。あるとするとナンセンス漫画の世界くらいだろう。

 『部活なんかやったって大学受験に不利になるだけ』というのも時々聞く話だ。確かに全国大会で結果を残すくらいでないとスポーツ推薦で進学を決めるのは難しい。それはごく一部の生徒だけに開かれた狭き門ではある。スポーツ推薦は可能性が低いので、部活をやりすぎると志望校の受験には失敗するばかりだから、部活などやるものではない、と大人で力説する人もいる。そして子供にもそう思う者が出てくる。少々皮肉ではあるが、そう力説した大人その人が、『既存の大学を出たくらいで新しい時代に通用すると思ったら大間違いだ』などと言ったりする。生徒の身になると、やりたいことを我慢してまで勉強して入った大学が、出ても意味ないと言われるようなもので、後の祭りをどうしてくれる?そう抗議したいのもやまやまだろう。

 Serendipityという英語。【セレンディピティ】と発音する。元々の語感をうまく伝えるそのものずばりの日本語訳がない。『思いがけない幸運に巡り合う能力』であるとか『偶然の発見を幸運に変える力』とか、もっと単刀直入に『掘り出し物を探す力』など、ざっとこれくらいの語意がネットで出てくる。自分では『何かを真剣に求めている中で、その第一の目的にプラスして、思いもかけず幸運を手に入れること、またはその手に入れる能力』とこの言葉を理解することにしている。例えば科学の大発見のエピソードの中でこのSerendipityが出くることがある。ノーベル賞創始者のノーベルは、ニトログリセリンが珪藻土に吸収されることを偶然発見してダイナマイトを発明したと言われる、ノーベルにとってこの珪藻土の登場がSerendipityというわけだ。もちろんすべての人がダイナマイトを発見できたわけではないだろう。ノーベルだからこそ、この偶然をゆるがせにしなかったのかもしれない。この言葉に“幸運を手に入れる能力”というニュアンスがあるのはこのあたりの鋭敏さのことを示すからだろう。

 こういってはなんだが、学生時代の教科の学習の意義は、それぞれ広く言われている。例えば数学は論理の訓練だとかいうのがそれだ。世の中に出てもロジックを操れるかがものを言う、ビジネス成功の要件だ、などと言われる。それは確かにそうだが、数学の問題が解けたときはひどくうれしく、あるいは『よくできたな』と数学担当からの一言が忘れられなかったとか、ビジネスで成功していなくとも、それらの思いにこそ自分が救われ、そして育まれ、最後の最後は自分だって捨てたものではない、と心のどこかで思える今があるとすれば、それは思いがけない幸福を自身が拾ったということにほかならない。それも正面の目標があればこそ、しかし、必ずしもそれに手が届かなくとも、思いもかけない幸福を手に入れることがある。Serendipityこそ教育の本当の成果なのかもしれない。(了)

東京オリンピック・パラリンピックの話

 やはり東京オリンピック・パラリンピック開催決定の話を今回は書くようだろう。現地アルゼンチンのブエノスアイレス時間9月7日(日本時間9月8日未明)、当地で開催された国際オリンピック委員会(IOC)総会は、2020年オリンピック・パラリンピックの開催地として、立候補3都市の中から決戦投票の末、日本の東京を指名した。東京苦戦の事前の予想を覆した形で、大差で他の2都市をおさえることができた。今、様々な勝因が語られ始めている。少なくともスペインのマドリード、トルコのイスタンブールと比べたときの東京のよさをしっかりと委員に伝えることができたから、今回の吉報を手にすることができたことはまちがいない。報道はひっきりなしに東京決定の報を流し続けている。そして街角の喜びの声を拾い続けている。

 1964年の第18回オリンピック東京大会に対しては、自分は実はTV中継を見たかすかな記憶もない。ただ、半世紀前の東京オリンピックを、そんな自分が知っているつもりでいるのは、幼い頃、家にあった東京オリンピックの実況を録音したソノシートを通じて、時折それをレコードに掛けては試合の中継録音を聞き、またその都度、何度もジャケットの活躍選手の写真を見ていたからだろう。今ではあのようなソノシートが出回ることもあるまい。昭和39年の東京オリンピックならではのことかもしれない。このときのオリンピックは、アジア初の開催の栄誉ということだった。昭和15年予定の東京大会が日中戦争のため中止となり、20余年かかって、開催を取り戻した形の東京オリンピックだった。敗戦後の復興を果たし、高度成長を遂げつつあった日本の復興・回復をこのオリンピックは象徴したとされる。ある意味、オリンピック開催は夢の実現であったかもしれない。

 今回、最終候補となったマドリードもイスタンブールも、心底、2020年オリンピック・パラリンピックを招致したかったことだろう。南欧の経済危機、そして隣国の政治混乱など、それぞれに安全性と安定性において、東京に及ばない要素があったと言えるのだろう。もちろん東京にも福島第一原発の汚染水問題という大きな問題が存在した。しかし、東京にはわずかに他の2都市より魅力があると、IOCの委員たちが感じたわけだから、それを伝えることができたプレゼンテーションは確かに大きな勝因の一つだ。オリンピック、パラリンピックのメダリストたち、安倍首相、猪瀬知事など政治家、官僚、そして皇室から高円宮妃もスピーチに立たれた。各界のチームワークの賜物であったのだろう。また舞台裏では、過去のオリンピック・パラリンピックの数々の招致を成功させた“振付師”を東京は雇っていたそうで、その振付師による『合格必勝講座』をプレゼンターたちはしっかり受講したという話も聞いた。

 さて、パラリンピックは前回の第18回大会にはなかった。オリンピックも、それを取り巻く世界も変わっていることはまちがいない。第18回大会を実際に観戦した世代は、次回の2020年にはむしろ少数になっているのだろう。あと7年後とはいうが、この7年間で何が起こるかはわからない。しかし、まちがいなく、一つの明確な目標ができた。もちろん競技者だけに目標ができたとは思わない。早速は株価が東京招致決定を受けて跳ね上がりをみせている。オリンピックの影響は小さくない。政界、財界、教育界その他多くを含む、国民にとっての近未来の目標になったと言えるだろう。なにより、今はまだチビ選手と呼ばれる子供たちにとって、夢の舞台が一つできただろう。子供たちが望みを持つことの力を信じたいと思う。
(了)
 

ピグマリオンの話

平成25年9月2日(月) ピグマリオンの話

 ピグマリオンという言葉を聞いたことがあるだろうか?教育心理学を学んだ方にはおなじみの言葉だろう。また、塾・予備校業界の関係者ならば、有名な中学受験の超大手塾がこの言葉に由来したコース名などつけているのを目にしたことがあるにちがいない。元はギリシャ神話に出てくるキプロス王の名前にちなんだものらしい。そこから作られた『ピグマリオン効果』という教育心理学用語にあやかって、その謀大手塾は自社のコース名をつけたものと思われる。さて、そのピグマリオン効果とは、別名を『教師期待効果』という。このように訳してくれていると、誠にその意味するところを理解しやすい。その通りで、ピュグマリオン王というキプロスの王が、愛着してやまない自ら彫った象牙の人形がやがて本当の人間になった、という話から、『教師が心から生徒に期待をかけることで、生徒はやがて本当にその期待通りの成長をみせる』ことをピグマリオン効果と呼ぶようになったそうだ。
 
 思い出すのは、子供の頃、かれこれ40年近く前に、少年向け雑誌に『同じ植物の苗を同時に栽培して、一方には毎日愛情を示す言葉をかけて育て、もう一方のグループにはそれをしないで育成実験したところ、愛情を伝えた植物群の方が遙かに充実して成長した』というような内容の記事が載っていた。それを読んだとき、少年だった私でもまさかそれはないだろう、と思いつつも、ひょっとすると植物もこちらの気持ちがわかるのかもしれない、などと思った記憶がある。真実はどうだろうか?おそらくこの植物の実験話は眉唾な気がする。でも、同時にこの時分に、ピグマリオン効果と呼ぶ教育効果に世の中の関心が集まっていたから、つい、脱線して植物まで話がいったのだと推察する。アメリカのローゼンタールという心理学者が“ピグマリオン効果”を世に問うたのが1964年だったというから、まさにそれは上記の自分の少年時代と重なる。

 ピグマリオン効果の反対の意味、すなわち、『生徒に期待するどころか、生徒が悪くて駄目な子だと思いながら接していると、やがて本当にその生徒は悪い生徒になってゆく』、この現象を『ゴーレム効果』というらしい。ゴーレムとは泥人形のことだそうで、この泥人形は、けして人間になることなく、いつまでも泥のままだというわけだ。何か感じのある言葉と思う。こちらが嫌っていると、相手もこちらを嫌いになる、というのと似ている。大なり小なり誰にも身に覚えのあることだろう。磁力線というのか、磁石の力は不思議な力で、目に見えない力であって、でも確かに磁石と磁石が引き合ったり、反発し合ったりする様を誰もが見ることができる。ピグマリオン効果とゴーレム効果は、引き合う磁石と反発し合う磁石の喩えのようだ。

 先生としては生徒と引き合う磁石を胸にしまって生徒と係わってゆきたい。素朴にそう思う。ただそのとき、一つ気になることがある。それは、そのとき、先生は自分自身に何を期待しているのか?だ。自分には何の期待もないが、先生として生徒だけには期待していたい、というのはちょっと弱い感じがする。自分をも期待通りの自分にやがて変え得るパワーが先生にないのに、どんな力が生徒に届くと言うのだろう?まずは先生が自分に本気で期待してからではないか?それがなくては始まらないことではないか?ピグマリオン効果を生み得るのはそういう先生なのだろう。自分を忘れてはいけない。自分に期待しない人物は、本当のところでは他人に期待することなどできない。回りくどいが、生徒を期待できる自分になれるよう、自身にも期待を込めることが先生の第一歩だと思える。(了)
 
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