2013年07月

現在、過去、未来の宿題の話

 かつて『過ぎてしまえば』という歌謡曲を、テレビの音楽番組で聞いたことがある。ぱっと聞いて若者が理想と現実の狭間で苦悩している姿を歌った曲だと思った。そして、いかに苦しく、また無様な葛藤の真っ只中にあろうとも、やがていつかそれらを振り返る時が来れば、一つ一つがその苛烈さを潜め、懐かしい思い出となってゆく、という歌詞だったろう。この曲のサビでは『過ぎてしまえば、みな美しい。過ぎてしまえば、みな美しい。』このフレーズがリスレインされる。ここのところを繰り返す歌手の声があの時ひどく印象に残ったのは、なるほどそうだ、と思ういくつかのディテールが自分自身にもあったからだろう。同じ思いは誰にもあるのだろうと思う。

 過去と現在と未来。この中で一番優しいのは、やはり過去だろう。記憶のフィルターの中で、過去の事実はマイルドになる。先述の『過ぎてしまえば』の歌詞の通りだ。そう言えば『思い出は美しすぎて』という楽曲もあったか!現実のどこにも見当たらない程に思い出は美しく感じられる、ということなんだろう。もちろんその底には、もう二度とその時は戻らない、という哀切感が流れている。せめて思い出の中で、というのはどう考えてもエレジーだ。ほろ苦く甘い。魂の慰撫というか、やるせなさというのは、苦い一方でほのかに甘い。

 次に優しいのは未来だろう。優しさの加減は過去とどっこいどっこい。まだ見ぬ故に未来は過去よりも多少なり味が薄い。その位の僅差だろうか。隔靴掻痒の感と言って、靴の上から足の痒いのを掻くような感覚が、未来を引き寄せようとする時起きて来る。だから求め続けることになる。まだまだ、となる。洒落ではないが、まだだから、やっぱりこちらも、まだまだとなる。永遠に求め続けるようになっているかのようだ。ある意味、一種の渇望感が未来を思うときには付き物になる。ここにある距離感が絶望的に遠いと感じる場合もあるだろう。逆に手が届きそうなのにやっぱり届かない焦燥感を呼ぶ場合もある。有名なディズニー映画の『ピノキオ』の主題歌は『星に願いを』というタイトルだった。木の人形のピノキオには届きそうで届かない星への思いが募っただろう。そしてどうしてもピノキオには星が必要だったろう。

 以上、だから一番厳しいのは現在だ。只今直面中の現在の現実こそが最も手強いだろう。『あの頃に比べたら今は幸せ』と言う人がある。しかし、これは正確には遠くの過去と、もの凄く近い過去を比べているだけかもしれない。おそらく現在は解釈を拒絶するのではないか?今は当ってみないとわからない。ぶち当るしかないし、ぶち当たることそのものが、現在なんだろう。だから現在には巻き込まれる可能性がある。というか、巻き込まれることそのものかもしれない。だから四中修正しなくてはならない。どこから来て、どこへ行くのか?またその時、過去と未来の“優しさ”を同時に振り切ることができるか?その宿題が常に現在には待っている。一刻、一刻その宿題と直面し続けている。(了)

 

82歳のボディビルダーの話

 先日、何気なく見ていたテレビの情報番組で、82歳の現役ボディビルダーが画面に登場し、その姿に思わず目が引き付けられてしまった。画面には、よくあるボディビルディングの決めのポーズをしているご当人の写真が映し出されていて、それがただごとではなかったのだ。年令を聞かされなかったら、その写真の人物が80歳を越える好々爺であるとは誰も気づかないだろう。まず、まさにその筋肉が違う。私達が見知っているお年寄りの腕でも腿でも胸でもない。“隆々”という表現が本当に当てはまる見事に発達した腕、胸、腿なのだ。へぇ~、超絶の人物はいるものだな、としばし感心するばかりだった。

 ところが更に驚いたことに、この方がボディービルディングを始められたのは、40歳を過ぎてからだというのだ。二度びっくりした。てっきり、若い時分から毎日のように鍛え上げた結果がその筋肉なのだろうと勝手に思いなしていた。意外なくらい遅いスタートだ。40歳過ぎからの40年間の鍛錬が今日の隆々たる筋肉に結晶したという。そしてその姿はとても若々しい。血色のよい溌剌とした顔立ちといい、背筋のぴんと伸びた様子といい、少なくとも20年ほどは若く見える。なにしろインタビューに答えている服装が、若者風のジーンズ姿ときている。とんでもないお爺さんであった。

 特別な人のように思えたが、しかし、そういうわけでもなさそうだ。けしてこの方が筋肉の性能が特別な特異体質であるというのではない。その番組に出演していた運動生理学の専門家が言っていたのだが、筋肉は運動の開始年令に係わりなく使った分は発達する、と言う。その事実は盲点だったと思ったが、本当もなにも、実際にこの82歳の現役ボディビルダーがそのものズバリの生き証人として傍らにいるのだから、完璧な説得力で筋肉は永遠に発達することが頭にインプットされてしまった。筋肉は鍛え続ければ、いくつになっても発達し続ける。筋肉は嘘をつかないということだ。

 逆に言えば、いつからでも始められるわけでもある。身体の鍛錬は、いつ始めても遅すぎるということはない。いつでも間に合うということだ。この82歳のボディビルダーを知って、どれ、それでは一つ自分も始めてみるか、という気になった。併せて、このときもう一つ初めて知ったことだが、筋肉を十二分に使い切った後、30分以内に栄養補給をすれば、とてもスムーズに筋肉が作られるのだそうだ。全人類共通のことらしい。この30分のことを“ゴールデンタイム”と呼ぶようだ。これまたしっかりインプットしておいた。

 さて脳の発達はどうなのだろうか?教室で学ぶ生徒達は、もちろん学ぶほどに脳がぐんぐん発達しているのだろう。では、講師を含む大人はどうだろうか?大人の学びは、大人の身体鍛錬と同じなのだろうか?今まで、脳細胞はどんどん成人後は失われて行くと習ってきたのだが・・・?それでは少し場から、自分自身で人体実験してみるとしよう。(了)

 生徒の学習法について、もっと全人類の法則に沿った学習法があるのかもしれない。82歳があれほど発達することが人類の法則だと知り、学習法についてもいつまでも、そしていつでも始められる方法はないか、探ってみたくなった。(了)
 

メンターの話

 “出藍の誉れ”という言葉を時々耳にする。これを『青は藍より出でて藍よりも青し』と言い直したものも時々聞く。解説までもないが、藍という植物から取った青色の染料は、出元であるその藍の葉よりもさらにより青いという意味で、ここから弟子が師匠を凌駕することを表すことわざ、並びに四字熟語となったものと習った覚えがある。それは、指導者冥利とは、そのような弟子を輩出することに尽きるという文脈で使われることが多い。

 まずは親子がそうだろう。いやいや中身はそんなに単純ではない、という意見もあるには違いない。場合によっては嫉妬心を子供の成功に対して抱く親、あるいはその瞬間があるかもしれない。しかし、仮にそうであっても、じんわり嬉しさ、喜びの方が親の心の中には残るのだろう。概ねはそうだ。親の自分より大したヤツになれよ!と思っている。さすがに我が子だと言いたいわけだ。

 他人に弟子入りする世界もある。よく聞くところでは相撲界などそうだ。弟子入りとか、入門とか言う。相撲界で印象に残るのは『恩返し』という言葉。師匠にというより、兄弟子と言われる先輩弟子に対して、その力士より強くなって相撲で勝つことを恩返しと言うらしい。先輩力士に土をつけることが、指導に報いるという意味で、恩を返すことになるのだと言う。

 さてそこで、この先輩力士がもう一度性根を入れて稽古に励み、自分より強くなった後輩弟子に再び勝ったとしよう。再び力が上になったとき、相撲界ではこれを恩返しとは言わないのだろうか?弟子のお陰で強くなったには違いないのだから。晩年、遅咲きの横綱になったとか、大関になった力士はどこかそういう思いをしているだろう。『今に見よ!』の思いをもって稽古・精進に拍車がかかったことだろう。そしてそれは、普通に世間一般にいる指導者の思いではないのか?

 指導者と弟子は元々それほど大差がないこと場合が多いのだろう。指導者とて少々その道を先に歩き始めたに過ぎない。相撲など、とある競技の実力を比べるなら、そのうち後進が先達を追い越す場合は多分にある。教育の道にある師にも同じことが降りかかってくる。ある意味、人間性であれば最初から生徒の方が上だ、なんてことさえなきにしもあらずだ。そういう生徒だっている。だから、そこで自分をもう1度磨き直そうと決心し、それを実践する師であるならば、その師は及第ではないだろうか?

 もう一つある。いかに競技力において師を凌駕したとして、いかに名望を後進が手に入れたとしても、師は師であろう。技量も人も、師も弟子もその差は僅差であったとしても、依然として師が師である条件は、その師が彼の弟子の勝利を喜べるかどうかではないか?そのことを素直にできる人物は師としてよっぽど及第している。最良のメンターとはそのような人物と思える。(了)
 

教職教養の話

 今年もまた公立学校の教員採用試験がまもなく始まる。迫っている1次試験は筆記試験がメインだ。教職志望者はテキストとにらめっこ、ぶつぶつ口ずさみながら、一生懸命頭に入れようと今時分は呻っていることだろう。教職教養といういわゆる一般常識問題と、それぞれの教科の専門性の確認と、試験の出題分野はこの2本柱となっている。考えてみると採用試験に出題されない限り、教職教養の教材など滅多にひもとかないかもしれない。しかし、こう言ってはなんだが、教職教養は実は現場で役に立つものではないかと感じている。

 個人的には、自分は教員採用試験を受験していないが、採用試験の教職教養を齧ってみたことがある。以前にも触れたが、教育史の中で、近代教育学の父と呼ばれるチェコのコメニウスが、同年齢の児童・生徒が同時一斉入学し、そして同時に一斉に卒業する現在の学校制度の枠組みを創った人物だと知り、また、その理由が、人々が共通の認識を互いに持つことにより、この世界から戦争を放逐できると信じたことによると聞いて、そうだったのか、と学校制度の始まりが腹にすとんと収まった。コメニウスは、例のドイツ国の人口が半減したと言われる30年戦争により、自身の家族を失っている。この一大殺戮戦は、人々の無知が引き起こしたものとコメニウスは見抜いたわけだった。

 なるほど。確かに同窓生となった者同士、互いを殲滅するまで戦うことはそうはなくなるだろう。同窓ということの意味の大きさをコメニウスは見抜いていた。確かに幼なじみとか同窓生は生涯の友人になってゆく。教職教養を齧ったお陰で、何か教育の道にいる意味の片鱗を理解できた気がした。自分の中に芯が入ったような気になったものだ。

 また、教育関連法規のボリュームが厚いのも教職教養の特徴だ。教育は法の支配をやはり受けている。当り前ではあるが、少し目が覚めたような気がするというか、現実の足場が見えてくる。ここをもう少し踏み込むと、教育と政治の係わりというのが出てくるはずだ。重要で、かつ難解なテーマだと思うし、また、教育の、とりわけ学校教育の現場に身を置くこととなった場合、そこは思案の箇所に必ずなるだろうと思われる。教育の政治性というテーマはかなり複雑な迷路となるのではないか。

 ここらのことを学んでおくのは、とかく進むべき方向が見え隠れしやすい教育の現場において、いつでも目をやれる道標に必ずなるだろう。実は塾・予備校志望者にもこのような学びは有用だ。青雲の志をもって採用試験に臨む面々には、何の意味があるのか訝しく思う向きもあると思うが、頭に入れておけば、いつか恵みとなって返ってくるものかもしれない。さて、今週は踏ん張り時だ。(了)
 

汗の話

 汗をかくことを悪く言うことはあまり聞かない。もっとも“汗でべとべとして気持ち悪い”くらいは耳にするけれども、“汗をかいたとは言語道断、とっとと立ち去れ!”とまでは言われるわけではない。汗はご承知の通り、“努力”とか“苦労”とかを象徴する比喩として使われることもけっこうある。涙とセットで用いられ、苦労に苦労を重ねてようやく形になった事柄を“汗と涙の結晶”と言ったりする。“いそしむ”という漢字は“勤しむ”であるが、汗をかくとは地道に勤しむことをイメージさせるのだろう。

 洋の東西というか、諸外国においても、やはり汗を尊ぶ気風は見られる。エジソンのかの有名な『天才は1%のひらめきと99%の努力である。』という言葉はその代表といえるだろう。英文では、
Genius is 1percent inspiration and 99 percent perspiration.
ご存知のようにこの日本語訳の“努力”とは、perspiration すなわち“汗”を言い換えたものだ。エジソンはひたすら発明に没頭していた様がうかがい知れるというもので、その結果として、人類の生活様式を一変させたような大発明が残されたというわけだ。

 汗にも冷汗、油汗と歓迎できない汗もあるものの、しかし、それらすらも挑戦とか、実地の経験の中でしか、お目にかかれない。その意味では、スイッチオンで闘いのモードにある証拠が、冷汗であったり、油汗だったりする。少なくとも、何はなくても自分を変えるチャンスにはなっているわけだ。“舞台”に上がったものだけ、冷汗がかける、という言い方もあるだろう。名誉の負傷ということもある。まずは、闘えということだ。

 夏が来た!塾での生徒たちは夏の講習を迎える。身も心も大いに汗をかきたい。脳みそにも汗をかかせたい。結果を動かす何かが生まれるはずだ。生徒たちの汗に、われわれも汗で向き合いたい。冷汗でも油汗でもなく、熱いエネルギーが湧き出させるような汗を、この夏またかきたいと思う。(了)

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