2013年06月

三年寝太郎の話

 タイプにもよるが、まったく何事もなく過ごすことをよしとする人も確かにいるだろうし、案外にそれが幸せに感じる人もいるのだろうと思う。とにかくいかなる場合も波風は立てたくない。安楽に過ごすことが一番だという考えには、ある程度わかる部分がある。ストレスになることはできるだけ避けたい気持ちは自分にだってある。厄介だと感じることには、好き好んでまで関わりたくはない。負荷を感じて過ごすよりも、適当に時間をやり過ごせればよい。そう思っている、そして、そのように行ってきている人は世間にいるにはいるのだろう。

 しかし、期間が問題だろう。“しばらくは何も考えないで、ぼーっとしていたい”というフレーズを耳にすることがある。そして、そのことはそれなりに意味がある、とされる。もちろんだが、それは期間が限定されていればこそだ。つまり“しばらく”だから概ね了解される。しかし、これが“一生涯ぼーっとしていたい”となると、話をまともに聞いてくれる人があまりいなくなるだろう。おとぎ話の“三年寝太郎”は、三年で目覚めたから、人が聞くに足る話となった。ご承知のように、寝太郎は三年間雌伏して、かんがいの治水工事を構想していたのだと読者にわかり、しかもそのかんがい工事が成功したというので、めでたし、めでたしと共感を呼ぶ結末とできる。大きな仕事をするには、そのぐらいの準備がいるものだよな、と皆思うのだ。

 学生時代というのは、ある意味、“三年寝太郎の時代”と呼んでもよいのではないかと思う。ぼーっとして見えることもあるが、実は作戦を練ってもいる。作戦とは、世の中に繋がる橋を架ける作戦とでも言っておこう。それが架かれば、死んだように眠って見えようとも、うつけ呼ばわりされようとも、一向にかまわないのではないか。ただの怠け者ではない。ただ、それは目覚めた時にわかる。目覚めたときを覚醒という。覚醒するまでが学生の寝太郎時代なのだろう。そういう学生時代もありだろう。

 ところで、ではそこでいう覚醒とは何か?覚醒とは勝負に出ることと言ってみたい。勝負に出るのが人の本能なのだろうと思っている。勝ちに出て、戦いをしないと済まないようにできているのではないか?到底、何事もなく過ごすことをよしとするような心境にはなれない。できるだけ大きな勝負がしたいと、人たるは思うようにできて生まれて来るのだろう。架かるかどうかの勝負というか、これで何か大きなものに橋が架かると思うような勝負に、挑まずにはいられないのだろう。そんな勝負の結果がはっきりしてみて、何か、落ち着いた気持ちになれる瞬間がある。この瞬間はなにものにも変えがたい。仮に負けたとしても、そこに一瞬充実感がある。だからまた、次へ向えるわけなのだ。(了)

AKB総選挙の話

 自分の柄ではないようにも思うが、先週の土曜日に帰宅すると、AKB48の総選挙というのをTVでやっていて、終わりの方だけ少し見ることができた。スタジアムを埋め尽くす7万人以上のファンが熱狂的な声援を送り続ける中、ファン投票の得票順位の結果を逐次発表する様子が画面に映し出されていた。『これはマジなんだな!』と思ったものだ。画面の下の方には“立候補”したメンバーの得票が昨年前回獲得票分と対比して、減った、増えた、を文字色を青、赤に使い分けることで示していた。まさに、国政選挙のときの選挙速報番組を模していると思えた。

 少々悪乗りなのかな?と思って画面を眺めていた。実際に、選挙結果を実況中継するスタッフにおいては、どこなく興ざめの様子もうかがえ、ある種の茶番劇の空気が感じられはした。しかし、よくよく見ていると、そういった多少のいかがわしさを含みつつ、AKB総選挙は、民主主義そのものかもしれない、と思い改めた。危うい基盤の上に立つことだな、という思いは民主主義そのものが常に内包していることなのかもしれない。その辺の加減を含めて、これは“民主主義の学校”なのかもしれないというフレーズが頭をかすめる。

 まず、AKBはファンによってAKB足らしめられるということがはっきりしている。つまり主権者がファンであることがとてもはっきりする。ファン投票の最多獲得者がステージのセンターに立つのだそうで、最も支持がある者が最も露出が高くなるべきだ、それがより多くのファンの満足に繋がる、そういうロジックなのだろう。これはいわば“ファン主権”といえる。AKBファンの多く、そして、その動向に多少なり関心を寄せるのは、圧倒的に若者たちだ。若者たちといって、おそらく小、中、高の生徒たちだろう。スタジアムのファン中には必ずしも若者とはいえない“特殊”なファンも映し出されてはいたが、しかし、圧倒的にファンの主体は青少年であることに違いはないようだ。すなわち、彼らはAKBによって民主主義を学んでいるといえないか!

 さてこのことは、教育の道に何を示すか?少し考えてみた。たとえば、塾・予備校の講師をとると、実は、AKBのメンバーときわめて類似した立場にあることが容易に想像できる。人気講師がより多くの生徒に受講される自然さが、AKBとやはり似た足場にいることを示すことだろう。公教育は必ずしもそうではない。学校教育の中では人気の有る者も、またそれがあまりにない者も同じ教員という前提に立つ。なぜなら、同じ教員免許という国家資格を有するものであるからだ。これはさきほどの“ファン主権”とは対極にあるかもしれない。繰り返すが、私教育の場合、講師はAKB48と同じ基盤に立っている。底が浅いと言われようがなんだろうが、まず、そこが出発点であることは肝に銘ずる必要があるだろう。(了)
 

『今でしょ』の話

 先日、有名な予備校講師の林 修さんのインタビュー記事が、新聞の人物紹介コラム欄に載っていた。林さんは、今やテレビのバラエティ番組にもレギュラー出演しているなど、時の人の感さえある。有名なキャッチフレーズ『いつやるか?今でしょ』は、流行語のように誰彼となく口をついて使っている。このフレーズは、おそらくその語感のよさが皆の耳に響くのではないか?問うて、間髪いれずすぐに回答する対句のように型が安定していることも効果がある。まさに呼応しているフレーズだ。それを拾い上げるところは、さすがと思う。さすがに国語の名物講師だ。

 とにかく人気講師である。その新聞記事の中で、林さんがこう言っていた。講師としての進化の秘密について答える形で『授業はわかりやすさだけでなく、どれだけ生徒が勉強したくなるか、スタイルを追求した』と。やっぱりそうだ!結局そこが授業の目的だと思える。林さんが“生徒をやる気にさせているか?”を授業の成否の分かれ目にように捉えていることを伺って、そこが勝負だと再確認することができた。わが意を得たり!とこの記事を読んで思わずニヤリとなった。

 新人講師の頃、このことがなかなかわからなかった。当時はどうしても内容進度のことばかりが気になっていた。年間カリキュラムで予定として組まれたその1回だから、の意識が強く、なにはともあれ予定まで進む、それを目指して授業に入っていたように思う。思い出したくはないのだが、その頃の授業はまったく盛り上がらなかった。打てども響かず。生徒が押し黙ったままだ。とにかく時間が長く感じた。授業をしている者がそのように感じているのだから、生徒にしてみれば、さぞ長くて気だるい授業だったことだろう。お詫びものだった。

 これでは駄目だと思い、どこを変えるか?さすがに考えた。そしてその解答は“インパクト”だと思った。語り口にもっと強いインパクトを出そうと考えた。そこで1オクターブ声を上げ、声量をさらに一段増すようにし、テンポも少しアップテンポに変えた。この変更によって、授業の長さについて体感時間は自分では以前より格段に短く感じるようになった。よくなったかな、と自分では思っていたが、しかし、生徒はどう感じているだろうか?残念だけれどもそんなに大きな変化は感じられなかった。黙って言われたことしか生徒たちはやってくれなかった。あまり大きくは変わっていない。このことを自分は大いに不満に思ったものだ。

 授業に活気はなかなか出ない。マイナーチェンジではなく、大々的に授業スタイルを変えたつもりが、それでもなかなか教室は活性化しなかった。要するに自惚れに過ぎなかったようだ。改めて林さんの新聞記事にある“生徒のやる気を引き出す”授業にはほど遠かったことを噛みしめている。

 生徒のやる気が授業の後に残るのなら、講師の存在など消えてもよい。生徒のやる気が“極限値”として残れば、講師のパフォーマンスなど“微分”されて消えてかまわない。むしろそれこそが授業の目的だったわけだ。ストライクゾーンを間違えている投手がボールを投げるとどうなるか?フォアボールで自滅する投手になるはずだ。その通りだったのではないか?(了)
 

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