2013年04月

連休の話

 連休に入りました。前半、後半に3連休が並びます。生徒たちは間の4月30日から5月2日までもお休みならいいのに、などと思っていることでしょう。ま、そうはいかないのです。ここはいわゆる“出”なんですね。この出があるから、連休のありがたみが増すということもある。当たり前ですが、休みばかりが価値があるわけではありません。そもそも連休は学生や勤め人と呼ばれる人々に限った話でもあります。自営業の人には与えられる連休はまずありません。もしも自営業の方が連休が欲しければ自分で作るまでです。すると、そこには顧客との関係が出てくる。お得意さまの理解ということですね。

 “大型連休”と呼ばれたり、“ゴールデンウィーク”の呼び名で親しまれることが多いこの連休は、調べるとそもそも戦後の産物のようです。ただし、4月29日今の“昭和の日”だけは戦前昭和2年から祝日であったそうでして、昭和の日は元は長く“天皇誕生日”でありましたが、天皇誕生日とは戦後の呼称であり、元々は“天長節”と呼ばれた昭和天皇の誕生日であったわけですね。この4月29日に、日本国憲法が制定された5月3日と、古来、端午の節句として男子の健やかな成長を祈願する日であった5月5日が祝日として加わりました。戦後昭和23年のことであります。その後、この連休がゴールデンウィークと呼ばれるようになったのは、映画会社の方でこの期間、非常に興行が当たり黄金週間と呼び出したのがその始まりとか。さらに昭和63年からは5月4日が“国民の休日”という祝日になって、経緯があって今は“みどりの日”となっています。実は諸外国を見渡すと中国に日本と似た大型連休が平成11年から作られたようです。中国の連休はどうやら明確に経済効果を狙ったことのようですね。

 戦後の民主化政策の中から出てきた大型連休は、国民の間に定着して根付いています。ただ、大きく見れば、この慣習はまだ歴史の浅いことではあります。個人的には、せっかくですから大型連休は、この先もこのままでよいのかと思います。できれば“掃除”がしたいのですね。垢落としと申しますか、クリーンにしたいものが、この時期丁度出てくる頃だとも思います。使い続けている携帯電話の画面が指先の脂で曇っていたり、ふと、眼鏡のレンズがくもってしまったり、そういうことが日々の生活の中に必ずありますね。そんな類であるけれども、クリーンにするには、まとまった時間のかかることを連休期間だと取り掛かれます。旅行などもそういうことだと思っています。掃除は大事です。(了)

ともがらの話

 新学年、新学期がやっとそれらしく動き始めてきたでしょうか。この時期には新入生もようやく落ち着きを見せ始め、学校探検も一巡り終わった頃かもしれません。先生の名前もおおよそ覚え、なにより気の合う仲良しもでき、休みの日に遊ぶ約束などが入って、学校生活に張りが出始めますよね。マズローの5段階説ではありませんが、仲間を求める欲求は、基本的な本能に近いものだと生徒たちの様子を見るにつけ思います。友達になれそうだと感じた瞬間のときめきに似た思いというのは、ご先祖さまのそのまたご先祖さまの、さらにそのまたご先祖さま達にも確実にあったわけですね。

 先ほどの5段階説では社会的欲求と呼ばれる友達を作りたい気持ちというのは、丁度5つの内の3段階目の欲求とされています。真ん中ですね。生命維持のための生物的な基礎的な欲求と、精神性をたたえた自己実現の欲求の間に位置付けられております。社会と言っても太古の人類は、血縁を中心に作られたような小さな群れの中で生きていたのでしょう。おそらく食料の調達力の関係で、大きな群れを作るメリットはそれほどなかったと思われます。時代が下って、農耕が始まって本格的な定住が行われるようになってから、ムラができ、さらに大きな社会ができるようになったと歴史の時間に習いました。固体が己の生を目的に向って全うする舞台は、人にとっては社会ということなんですね。社会的欲求がマズローをして丁度真ん中に位置付けた意味はそこかなと思えます。

友人を求める心は、自分が参加する社会を作ろうという、意識的というより、ぎりぎり無意識の欲求の現われなのではないでしょうか。このことを踏まえながら、別な言い方をすれば、社会とは人にとっては一義的に友達のいるところそのものです。“ともがら”という言い方をします。もちろん仲間のことで、漢字では“輩”と書きます。そして次から次への人物が出てくることを輩出といったりしますね。“ともがら”が集って、続々と人物が世の中に巣立っていくと言えば、まさにそれが学校でもあり、塾でもあるわけですね。学校も塾も、ともがらが集う場所であり、やはり生徒にとって社会そのものですね。

 さて学校でも塾でも、友達を作ることだけでなく、一方で失わない方法を教えることも大事なのでしょう。友人を失うとは社会を失うということです。では友人を失う典型的なケースと言えば、例えばそれは嘘がらみです。まずは『嘘をついてはいけないよ』と折に触れ伝えることなのだろうと思います。
“方便”と言われるレベルの嘘には、目くじら立てるほどのことはありません。しかし、ともがらを騙すことになる、そして陥れることになる嘘は、けして許されないときっぱり伝えなければなりません。
ペテンとも言うような、昔の人が『閻魔様に舌を抜かれるぞ』と戒めた嘘のことですね。
人間性というような複雑なことへの言及はいざ知らず、“悪い嘘つきになるな”とシンプルに伝えるべきですね。
そして、その手の嘘をついたなら、一も二もなく詫びるほかなく、償いをするしかないことも伝えなければなりません。
社会にいるとはそういうことなんだと。大事な指導ですよね。だから逆に先生たる者は、悪い嘘だけはなんとしてもつかないよう踏ん張らなければなりません。自分の弱さを直視して、それでも尚、変な嘘はつくまいと頑張る。それこそ教育の道にいる条件なのだと思えます。そこでこけてはいけないですよね。(了)
 

記事になった教材の話

 新学期の授業が始まっています。新しい学年に変わるのは生徒だけではありません。先生だってそうですね。もちろん同じ学年を担当する場合もありますが、まったく同じということは少ないものです。新しい教材を始めることになるケースが多いわけですね。研究が欠かせないです。教材研究は授業にはなくてはならないものです。そして、一度研究すれば、それでこと足れりともいかない。生徒が変わるわけですから、教材の使い方に工夫が必要な箇所が必ず出てきます。工夫を施せば教材はどこか変わるのですね。教育の道の住人は教材に工夫を加える者でなくてはなりません。

 また、工夫もさることながら、教育の道の住人は教材の開発も手がける必要が出てきます。開発というと大げさですが、ちょくちょくヒントはないかと漁りまわることがありましたね。かつて私が中学生の国語を担当していたときに、新聞なぞを読んでは、『これは授業で使える!』という箇所は切り抜いていました。誰もがやっていることです。まぁ、とても有名は灘中学・高校の橋本武先生の『銀の匙』の授業とまではいきませんが、自分の授業で試せそうな“匙”はないものか?知らないうちにそれを探して文章にあたっているのですね。これも大きく見ると一種の教材作りだったと思います。ちなみに、橋本先生はガリ版刷りの『銀の匙研究ノート』というプリントを生徒に渡しながら授業をされたようです。前夜の2時、3時までかかって仕上げたそうですね。それがとても愉しかったのだと言われていました。教材開発の達人の境地です。

 教材開発には“挑戦心”が必要です。『授業でやれそうだな。では行ってみよう!』これです。そんな挑戦の一例を紹介させてください。実は先週末4月12日(金)、朝日新聞朝刊の教育欄、『まなあさ』紙面に、当社俊英館の国語の授業の紹介記事が掲載されました。朝日新聞社が実は児童・生徒向けの教材を作成していることは知らない方が多いかもしれません。朝日が月刊で発行している総合学習教材に『今解き教室』というがあります。当社俊英館ではこれを小学6年生の国語のテキストとして今年度から採用したのですね。その他の大手塾さんもたくさんこの『今解き教室』を取り寄せられるようですが、授業のテキストとして使う塾は俊英館だけのようです。そしてここに来まして、ご縁がにわかにふくらんで、朝日新聞社の教育総合センターの“がち”の記者取材を経て、今回金曜日の記事が紙面となったものです。記事を読みますと、朝日新聞さんが当社の授業をよく見ていただいたことがわかります。ぜひこの記事はみなさんにもご覧いただきたいですね。

 大事なのはチャレンジですね。生徒の教材を作るときに、生徒がどんなリアクションしてくれるか、愉しみでしかたがないと、胸躍らせながらのハードワークが、教育の道の住人の教材作りなのでしょう。(了)

新入学の話

 入学式がラッシュしています。今年は関東では既に桜の花が終わり加減です。もうあらかた葉桜となっていて、入学式の日の爛漫の桜の木を今年は見ることができませんでした。しかし桜が1週間早く散ろうとも、おかまいなしに新入生たちはいそいそとやって来ました。にぎにぎしく校門をくぐって来ます。小学校1年生はランドセルが歩き、中学校1年生は制服が歩き、高校1年生はニューシューズが歩いているようです。また始まりましたね!

 もうあまりにも時が経ってしまい、すべてがうろ覚えではありますが、私は小学校の入学式を父の転勤で引越して来たばかりの新しい町の小学校で迎えました。小さな小学校でしたが、新1年生の大半は幼稚園から一緒にあがってきます。田舎町の二十数人の新1年生の中に他の町からやってきた子供は男の子ばかり3人でした。この3人の一人が私です。入学してしばらくは、実にこの3人で行動していましたね。なぜだと思いますか?それは、いわば原住民である幼稚園あがりの子供たちが、この3人をはぶくからなんですね。もちろん彼らの悪意ではありません。本能に近いと言いますか、群れの論理が働くかのようです。新入学というのは必ずしもバラ色ばかりではないですよね。子供は小さくてもそれなりに人間模様があるのわけでした。

 しかし、これもまた自然の法則に則ったことと申し上げればよいのか、ほどもなく、私と残る2人もやはり“土着民”となっていきました。昼休みに、放課後に、誰や彼や一緒に裏庭や校庭で鬼ごっこをしたり、石蹴りをやったり、また、いつのまにかニックネームで呼ばれるようになっていきましたね。時の流れの力というのか、仲間になるプロセスというのがある気がする部分です。

 繰り返しになりますが、時は流れていきますね。まさに新しい新入学、新学年、新学期も、ほどなく在校生、現学年、今学期となってしまいます。実は猛スピードなのだと思います。瞬く間とはよく言ったもので、何かあってもなくても時は流れて行きます。だったら、何もなく無事にというよりも、少しくらい何かあった方がよいとも思えてきます。少々のリスクはつき物だと思う方が自然ですね。黄色いカバーの付いた真新しいランドセルがあちらこちらを歩き始めました。時の流れを変えることなど、いささかもこちらにはできないわけですが、せめてGOOD LUCK !!をアイコンタクトの代わりに送りたいと思います。(了)
 

一粒万倍日の話

 今年平成25年の4月1日は一粒万倍日(イチリュウマンバイビ)にあたります。この一粒万倍日は『何を始めるにも最適の縁起のよい日』なのだそうです。原義は『一粒のモミが万倍の稲穂となって実る日』という意味だとか。誠に福々しい日なわけですね。まさに新学期4月にふさわしい日であります。とはいえ必ず毎年4月1日が一粒万倍日となっているのでもないようです。それは丁度必ず4月1日が大安でないのと同じような理屈みたいです。であるならば新学期・新年度が始まる今日の4月1日が、たまたま一粒万倍日となったことには何かあるような気がしてきます。

 この一粒のモミが遥か万倍の稲穂として実るというイメージから、有名なサミュエル・スマイルズの例の“思いの種・・・・・”という詩が思い出されます。

   思いの種をまき、行動を刈り取り
   行動の種をまいて習慣を刈り取る
   習慣の種をまき、人格を刈り取り
   人格の種をまいて人生を刈り取る
       
 万倍の稲穂と実るためには、まずモミはまかれなければならないわけですね。一粒が万倍になるために!実際に行動を起こし、行動し続けることが実る条件なのだと。ちなみにこのスマイルズはこれまた有名な『天は自ら助くる者を助く。Heaven helps those who help themselves.』という言葉も残しています。英語の関係代名詞の例文として見かけたことがありませんか?誰かがなんとかしてくれるのを待っても無駄だぞ!と言っているのですね。スマイルズの著作は日本の明治の青年たちによく読まれたようで、あの時代に100万部も出ているそうです。

繰り返しなってしまいますが、一粒万倍日である今日4月1日は『何を始めても最適の縁起のよい日』なんです。ならば『まずは種をまけ!何でも始めよ!』ですよね。(了)
 
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