2013年03月

逃がさない空間の話

生徒は何をするかわからない。こう言うと猜疑心一杯の取り越し苦労タイプの講師ととられるかも知れません。しかし、考えてみると生徒に限ったことではないですね。人は何をするかわからないというのは事実です。自由意志のことを言っているだけではありません。ネガティブな意味でも、放っておくと自分ばっかりの利益を求めるようになり、ともすれば悪いことは他人のせいにしたがり、自分はできるだけ安楽にしていたい、これが人情だという言い方すらあるくらいです。多かれ少なかれ、それが多くの人の実態的な現実であります。その身勝手のために何をするかわからない。例えばルールを違えたり、他の人の大切なものを損なったり、始末に負えないことをしでかすこともままあるわけです。

人は独りでは弱いものだ、とよく言われます。うんと昔から言われ続けていることですね。人はもろくも崩れやすいことにおいては、洋の東西も、時の古今の別もないのでしょう。教育がなぜ必要かは実はこのことに関わっているのではないでしょうか。放っておけば自分の欲得ばかりにかかずらい、他を顧みることもなく、身勝手を行ってしまう輩が私たち人であるからです。他を顧みる視点を持てるようになったり、自分ばかりでなく誰かのためにがんばれる自分創りを行ったりが、教育の原点にあるように思います。人は人たる自分自身に手を焼いてきたのでしょう。なんとかならぬか?の問いの産物が私塾教育であり、学校教育ではないですかね。

教室は生徒が強くなる空間です。その強さとは、先に述べた“放っておくと逃げ出す弱さ”と直面する強さだと思います。逃げずに攻める、アタックを繰り返す空間です。それでは、教室がアタックせずにはおれない空間にどうやったらなるのか?ぜひ考えていただきたいと思います。講師を希望する方にはどうしても考えていただきたいですね。生徒を逃さない空間創りはあなたにとって必須のことですから。  (了)
 

卒業式の日に帰る話

卒業式シーズン真っ盛りです。幼稚園から大学まで学校は1年で最も晴れやかな舞台を迎えます。卒業式の意味は、丁寧に語ればたくさんのことがあるでしょう。その中で、わかりやすいのはもう明日から登校しなくてよいということです。ああ、やっと開放される、などと思う生徒もいるでしょうが、そうであっても、あれほど行くのが面倒だと思っていたくせに、なぜかもう行けないのかと思ってみたりするわけです。しみじみと何気ない変哲もない日々が、限りある日々であったことに思い当たる。それが卒業式でもあります。多くの生徒には、言葉にならない思いの塊がこみ上げてくる日ではないですかね。

一方、教師にとって卒業式は、最終ゴール、大いなる目標です。様々苦労もしながら、卒業式のためにがんばる。晴れて全員を送り出すまでがんばる。そう思い直すときもままあるわけです。そのような意味で万感こみ上げるのが教師の卒業式なのでしょう。卒業式が終わると最後のホームルームがあります。一人ひとりにそれぞれの卒業証書を本当に渡す場面です。全員に証書を渡し、さてもう一度改めて卒業していく生徒たちに目を向けると、嬉しいようで、哀しいような、随喜と哀切の涙が思わず溢れ出すのでしょう。この日は泣ける日で、そして教師が心から泣いてよい日であると思います。

保護者にとっても卒業式はなんとも言えない日です。小学校の6年間は言うに及ばず、中学校の3年間も、そしてやはり高校の3年間も、子供たちは見違えるほど成長します。心身ともにはっきり目に見えた変化を遂げてくれるのです。普段は忘れているそんなことが、卒業式ではにわかに親の目に迫ってきます。親としても卒業証書をもらえたような感覚と申しましょうか、そんな達成の思いが自然と湧いてきますね。そして教師への感謝を素直に表せる日でもあります。子供の友人ごと親は育てることはできません。子供が友人たちとともに、同じように大きくなれたことは親には何にもかえて嬉しいことです。まずは人並みに成長することが親の願いであるからです。

卒業式は、生徒と教師と保護者との三つの思いが重なる日です。三位一体とはよく言ったものです。この日は、三つの思いが渾然一体となる日だから、特別な空気が式場に満ちるのですね。他では出来上がらない空気です。忘れるものではありません。

そしてこの日が終わると、共に巣立つ仲間には、以降めったに会えなくなる場合もあります。いつのまにかお互い大人になって、生涯再会せずじまいということもあるでしょう。もう再び肩を並べることはないかもしれない。しかし、いつでも仲間と一緒に帰ってこれる日がある。地球の裏側で暮らすようになった者であっても、たちどころに帰ってこれる日がある。それが卒業式の日であります。卒業式の日に帰る、妙な言い方かもしれませんが、胸にちらりとあの日を思い描いただけで、時空を超えられる気がするのです。卒業式は皆が帰ってくる“日”なのだと思います。(了)

“月は東に日は西に”の話

菜の花や月は東に日は西に 与謝蕪村
 
どこかで聞いたことのある俳句ではないでしょうか。この句から“月は東に日は西に”の部分が取り出されて使われるようにもなっていますね。春分の頃の夕暮れ時分、眼前に広がる菜の花畑を挟むように東の空に昇ったばかりの月が見え、そして西にはこれから沈もうとするお日様が見える。パノラマのように大きな光景を句に詠み込んでいて、とてもイメージしやすい俳句です。この句のようなシーンを実際に見ることがあります。そのときはやっぱり不思議な気持ちになりますね。お月様は夜、お日様は昼。それぞれ別世界と思い込んでいる分、この二つが同時に空にあるのを見ると確かに“おや”と思います。

“月は東に日は西に”の時分は、生徒たちが塾に行く時間帯ですかね。学校が終わって家に帰り、子供たちは塾支度をして、軽い小腹ふさぎをしてから、“行ってきます!”と表に飛び出して行きます。丁度その時分に、“月は東に日は西に”の空を子供たちは見上げるのでしょう。夕焼けの空の反対側にまだ少し薄明るい月が出ている下を子供たちが塾へ向います。塾に着いて教室に入る頃には、もうすっかりお日様は沈んで、あとはお月様の世界が始まるわけですね。月は流れて徐々に西に向っていきます。そして、やがて子供たちが塾から帰る時簡になります。子供たちは再び表に飛んで出て家路を急いでゆくわけです。

子供たちが“学校と塾はどっちが大事?”と問われると何と答えるでしょうか?普通の大人に聞けば答えは簡単で『学校に決まっているでしょ。』と圧倒的に多くの方がそう答えるだろうと思います。学校はステータスに繋がるものと認識されている面があります。社会制度としての設定には画然とした違いがもちろんあります。しかし、子供たちはどうでしょうか?必ずしも学校とは答えないかもしれません。むしろ『塾だ』という子もいるでしょうね。そして、実際に多くの子供たちは『うーん、どっちもかな』と答えるんじゃないでしょうかね。どちらかに選ぶということは、子供たちにはできかねることなのだろうと思っています。

“月は東に日は西に”、子供たちには学校も塾も同じ平面にあるのだと思います。“月は東に日は西に”はなにも不思議なことではない。それが自然なことだ、くらいに普通に両者が並立していると思えます。言い方を換えれば、表も裏もないということです。お月様にはお月様の世界、お日様にはお日様の世界があるわけです。子供たちの素朴な気持ちは、おそらく塾も学校も好きか、塾も学校も嫌いか、が圧倒的に多いのでしょう。“あれかこれか”ではなく、時間が流れて回り舞台が次の舞台に繋がって行くようなものかもしれません。

月の世界が終わり加減になると、今度は子供たちは、学校に行くためにごそごそと起き出してきます。学校支度をして、朝ごはんを食べて、”行ってきます”と飛び出していくわけです。“あれかこれか”ではなく“あれもこれも”なんですね。“月は東に日は西に”の後には、月の世界がお日様の世界に繋がるのです。塾から今度は学校へ、子供たちはまた向っていきます。
 
東の野にかぎろひの立つ見えて 返り見すれば月かたぶきぬ   柿本人麻呂 (了)

教員志望と塾修行

学校の教員をする前に、3年なら3年他の業界に就職して、社会勉強してから再度教員を目指そう、という考え方があります。経験の幅を広げる点でその意味はあると思います。ただ、逆に、『銀行マンになろうと思うんだけど、3年ぐらい他の業界で修行して、再び銀行マンを目指そうと思う』という人はあまりいないように感じます。教員の世界ならではの修行の仕方なのかもしれませんね。そういえば、あとは同族で代々受け継がれてきた老舗の御曹司などが、『他人の飯を喰え』と言われて武者修行させられることがあるくらいですかね。

ところで、社会勉強と言うからには、その他1社くらいの経験で十分なのか?ということは出てきそうです。世の中を知るにはそんなものではないだろう?そんな声も聞こえて来そうですね。確かにその他1社で事足りるなら、もしかすると他業種にいかなくても、最初から教員一本でいいのではないか?そう言われればそうかもしれません。

1社でも他の企業に勤めてみる意味は、特に教員を目指す人にとっては、営利企業に入って利益を出すために相応の苦労をすることを経験する、これが一番大きいのではないですかね。公益法人ですから、私立学校等も、もちろん利潤の追求を経営の目的には持たない建前で運営されています。一般の民間企業ではその苦労が絶えないわけです。資金繰りというのは経営の頭痛の種であることが多いのです。そして、優勝劣敗といいますか、資金が詰まったら退場しなくてはならないのが普通の商店、会社法人です。教員になる前に世間を知るというなら、“儲けるための苦労”を知りなさい、と理解するとわかりやすいでしょう。実は本当にそう言っているのです。

だからです。教員を志望している方々には、塾・予備校という営利企業で武者修行することの意味はあると思います。塾・予備校は独立自尊、自立のために日夜闘っていると言ってよいでしょう。その真剣勝負の世界を肌で知ることは輪郭のはっきりした経験だと思います。もちろん、その逆もあってしかるべき。『塾・予備校の講師になりたいから、3年間学校教員をやってみる』もありですね。“飯を喰っていく厳しさ”をどこで胸に刻むか、そしてその上でどこまで本来の使命を果たしていけるか?そういう捉え方自体を学べるなら十分でしょう。教員志望の皆さん塾予備校の門をくぐる意味はここにありそうですね。(了)
カテゴリ別アーカイブ
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ