2013年02月

・・・で強い人の話

教育の道で人生を賭けてみようと思う人には、この道で巨万の富を手に入れようと考えるタイプは比較的少ないでしょう。人生を全うするに足る、過不足ない生活ができれば、それ以上を望まない方がやはり多いように見受けます。贅沢しなければなんとかなるだけの生活の資を得られれば、他のことはすべて忘れて教育の道に邁進してみたいと思っている方も案外多い。実際に教育の道の世界で出会う方には、この傾向があるように思います。

しかし、一方でそのあり方は平凡とか、凡庸ということではないか?と悩む方がいると思います。ぱっとしない人生ではないか?と感じるかもしれません。そして、ではこのように悩む方が教育の道には向かない人たちなのか?というと、それも違うという気がします。いやむしろ、そのように悩む人たちがなかなかの先生になることは案外多いとも感じますね。型にはまるのが嫌なタイプというのは、何者かであろうと戦いますからね。

誠実な人、真面目な人、温和な人、謙虚な人、慎み深い人、優しい人、清楚な人。教育の道にいる人たちは、こんな形容が似合う人たちが多いですね。確かにそういう特徴を持った人たちがいる世界になっていそうです。それは否定できない気がします。でもこれからはどうなのか?これを変えるべきなのか?それとも変えてはいけないのか?いやそもそも変えられるものか?むしろ変わってゆくものではないのか?色々な声が聞こえるように思います。

教育の道にある人は、“いい人”でなければいけないとは思います。それはそうだと、誰もが言ってくれることなのでしょう。しかし、“いい人だけど・・・・だから”とマイナスに言われるのはどんな場合があるか?考えてみて案外すぐに思いついたのは“いい人だけど弱いから”なんて言われるときでしたね。この様子を人によっては“凡庸”と言ったりするのだと思います。先ほどの形容に次の一言を加えてみます。誠実で強い人、真面目で強い人、温和で強い人、謙虚で強い人、慎み深くて強い人、優しくて強い人、清楚で強い人。どうでしょうか?『あぁ、こんな人ならきっといい先生に違いない!』そう思えませんか?教育の道にある人は“・・・で強い人”である方がよい。強い人はグローリーを求めるだろう。それに向かっていける人じゃないですか、大事なのは。だからまず強くなることです。強くなるしかないのですね。これからのことですけどね。(了)

不合格の知らせの話

ちょうど今頃は、中学入試が一段落し、高校入試がほぼ公立高校を残すばかりとなり、大学入試が佳境を迎えつつあります。毎年のことながら落ち着かない日々が続きます。試験には言うまでもないですが、合否があります。『先生、合格しました!』の声とともに、『先生、●●駄目でした。』の報告ももらいます。やはり試験というものは厳しい。この季節ばかりはそう思ってきました。不合格だった生徒からの知らせはつらいものがあります。特に一番こたえるのは『先生、だめだった、ごめんね。』と生徒が詫びながら不合格を報告してくれるときです。これはこたえます。期待に応えられず、先生をがっかりさせて申し訳ないと言ってくれるわけですが、かえってこれがつらいのです。本当は、そっくりそのままその言葉をこちらが伝えなければならないのですから。

入試に落ちたくらいなんだ、人生その先こそ長いのだ、勝負はこれから、命までとられるわけじゃなし、たかが入試など人間の値打ちと別物さ、気にするだけ損なだけだよ。―これを聞いて、その通り!試験で世の中決まらない、などと言い始めるのは、誰彼におじさん、おばさんと言われるようになってからではないですかね。思い出してください。受験生だった頃に、こんな割り切り方はできなかったでしょう?唯々唯々残念で、唯々唯々情けなくて、そして悔しかったのではないですか?どうにも自己喪失感が止まらない。自分はもうだめなんじゃないか、その恐怖におののいていませんでしたか?立っていられないくらい、眩暈がするような感覚にとらわれましたよね?そしてどこかに逃げ出したかったですよね?

不合格の衝撃は、まずどうしても受け止めなくてはならないものです。もちろん本人が真正面から受け止めるほかない。回りが何を言っても始まらないのだと思います。自分の受け持つ生徒が志望をかなえられなかった場合、先生としての自分はどんな先生であればよいか?未だにわかりかねています。何を言おう、どうやってショックを忘れさせることができるか?いや、このショックこそバネにしてもらった方がよいのでは?何か気が利いたメッセージはないか?―でもないですね。実もふたもないようですが、そのような気の利いた言葉などありません。そういう効果の計算自体に無理があります。ならば何か自分にできるのか?

そのとき先生である自身にできることは、とにかく一緒にそのショックを受け止めるしかない。一緒に悲しみを受け止めるしかないのではないでしょうか。そして待つしかないのではないか。一緒にもう一度目を上げる日を待つしかないのではないか。それ以上はできないのかもしれません。一緒に受け止める以外のあり方を、私は思い浮かべることができません。(了)

アイマスクを取り去る人物の話

会うだけでその相手を活性化してしまう人物が時々います。これは言葉では説明し難い作用で、なぜだかわからないけれども、何か、それまでと違う自分になった気がしてしまうような、目に見えない化学変化を引き起こしてしまうような人物が確かにいます。それがどうして起こるのか?逆に起こせない人にはいつまでたっても起こせないのはなぜか?その違いがどこにあるか?繰り返しになりますが、言葉ではなかなか説明ができませんね。

こんなイメージはどうでしょうか?アイマスクをしてうつむきながら、にじり足で崖のようなところを少年が歩いています。この少年は高所恐怖症で、高さが目に入らないようにアイマスクをしているようです。歩いてきて、どうもつま先が空中に投げ出される感じがする。どうやら崖の道が途絶えてしまうポイントにたどり着いたらしい。少年は立ち往生してしまった。どうしようか?そう思っているときにある人物が現れる。

その人物は、少年にけして下を見るなと言いながら、やにわにアイマスクを取り去ってしまった。少年は眩しさの中でその人物の笑っている顔を確かに見た。すると次の瞬間その顔は消え、二つの大きな手が少年の背中を前に押し出すのがわかった。押されて少年は崖を飛び出すしかなかった。気が付くと無我夢中で向こう岸に飛び移っていた。ほっとした少年はそこが高山の尾根であると初めて気づいた。向こうにピークをその目で確かめることができた。そのときそのまま後ろを振り返ってみたが、アイマスクとともにあの人物はどこかに消え去っていた。

わずかに一瞥でも、誰かを突き動かす内面の変化を引き起こす人物と出会える確率は、現実にはかなり低いと思われます。それはやはり特別な人です。でもゼロではないですよね。そう、必ずいるのです。新しい自分を創るときに、触媒になるような人物。例えば、小学校3年生のとき、私たち悪童がいたずらをして全員叱られたときのこと。そのとき叱ってくれたのは女性の先生で、厳しく叱ったあとに、悪童が一人ひとり謝りに先生の前に出て行った。悪童が一人、また一人お詫びをするうちに、その先生の頬を一筋涙が流れていくのを見た。涙のその先生の姿は、私たちの何かを破壊し、何かを創ったと思います。

教育の道にある者は、本当は一瞥会うだけでも生徒を活性化してしまう人物であってほしいですね。もちろんなかなかなれるものではない。しかし、少なくともそれを目指してみないですか。そのとき、あなた自身が出会ってきたそういう人物をまずは思い出してみましょうよ。その方はあなたに希望を与えてくれたのではないですか?あるいは、その方こそあなたの希望そのものではなかったですか?今度はご自身の番ですね。アイマスクをはずしに向かってあげてください。(了)

合格発表の話

2月1日、東京・神奈川の私立中学入試が始まりました。私学法人に勤務していた頃は、この2月1日には色々な思いがこもったものです。学校法人サイドの人間としては、私学経営における生徒募集の重要さを身に沁みて痛感する立場にいましたので、まずは“数”を大いに気にしていたものです。受験生数が果たしてどうか?定員を越えるか?昨年とどうか?2月1日を迎えるまで、これらの思いに強烈に支配される経験をしてきました。いかに教員が腕を撫しても、生徒がいない教室では、ふるえる腕も何もないわけですから。学校法人としての生存競争の戦場が2月1日に拡がる感覚がどうしても抜けなかった記憶があります。

ところが、その2月1日の朝、学校に受験に訪れる生徒・保護者のみなさんの様子が目に入った途端、法人の生き残りを賭けた戦場の一兵卒は鎧の上から矢で射抜かれて倒れてしまいます。あの生徒たちのひたむきな眼差しと、保護者のみなさんの祈りに満ちた眼差しに、なんというか、ある種の神聖さを感じてしまうのだと思います。その瞬間にたちどころに頭を離れなかった“数”が消えます。あの受験生たちの姿はドラマでは映し出すことができないでしょうね。混じりっ気のない、一途な願いをそこに見出すことができます。そして、それはなぜか、やがてどこか哀調を帯びて再び迫ってくるのです。こんなにもこの学園を思ってくれるのか、と。全員迎えることはできないのに、と。

試験が終わり、採点が終わり、合格判定会議が終わり、合格者が確定します。その発表掲示の時間に合わせて受験生・保護者が集まって来られます。インターネット上での発表も併せて行っていましたが、それでも実際の掲示を見ようと一団の方が集まっておみえになるのです。歓声が所々から上がり、同時に静かにきびすを返して帰っていかれるファミリーもあり、発表会場はとりどりの色調を帯びていきます。受験生たちにとっては大きな経験でありましょう。12歳には大きすぎるかもしれません。不合格ばかりでなく、合格もそうかもしれない。会場の片隅でそんな思いにとらわれていたものです。

せっかく合格して喜んでいる子供たちにはつれないことかもしれませんが、これはけしてゴールではないことを知ってもらいたいと思ってきました。同様に、この試験では合格できなかった生徒諸君にも、これはゴールなどではなく、単なる通過点だったとしっかり見据えてもらいたいとも思ってきました。合格者・不合格者のどちらにとってもプロセスなんですよね。もちろんプロセスの意味は大いに受け止めてもらえばよい。そこから収穫は必ずあるでしょう。強くなったところがどこかにある。それを携えて次に向かえばよい。合格した子も、不合格だった子も。合格発表のときにはいつもこんなことを考えますね。

ところで先日見かけたある都立高校の推薦入試のお話ですが、こちらの合格発表の日にも、今回たまたま通り掛かってしまいました。合否が分かれることはここでも同じです。握手する親子ときびすを返す親子と。二手に道が分かれますが、それぞれそのまま歩き続ければよいのだろうと思いました。有名な『僕の後ろに道はできる』といった詩の一節のままに、気がつけばそこに道ができている。いつか合流するかもしれず、しかし望まなければ別々でもかまわない。要は、自分の本当の目的地に向かって進み続けることが、意味を授けてくれるのかもしれません。その『遠い道程』を倦むことなく歩き続ければ、それでよいのだと思えてきます。そう信じたいと思っているのです。(了)
 
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