2013年01月

試験が始まった話

先週の土曜日、日曜日に大学センター入試がありました。毎年、センター試験が始まると、受験戦線の火蓋が切って落とされたような感じがします。受験生が緊張の面持ちで試験会場に入ってゆく様子など報道されますが、一方でなにか開放感のようなものを会場へ進む受験生たちが感じているようにも見えます。試験本番が来るまでの間こそは、えもいわれぬ閉塞感というのか、早い話、生殺しに合っているような気持ちを受験生は持つものですが、試験の本番のその朝は、その天井の低い、閉ざされたような思いとはおさらばしてきたという、ある種の清々しさすら浮かべて、会場に入って行く受験生も見かけます。

試験というのは、あっけないものです。考えてみると1年なり準備をしてきて、僅かに2日間の、賞味6.7時間のうちに、山ほどつめたことの、その極一部だけを頭から引っ張り出して、ダーッと書いてそれで終わってしまうのですから、あっけないといえば、誠にあっけないことです。うまくいけばまだしも、失敗などしたら、それこそ、1年間は何だったのだろう?と思ってしまいますわな。もう1度やらせてもらえないか?そう思うでしょう。しかし、それができない。それが試験というものですね。泣いても笑っても一発勝負というのがやはり試験です。

別のカメラが、会場前で受験生を見送る学校関係者、塾・予備校関係者を映し出すことがあります。そうです、先生たちが教え子を見送るといいますか、激励に駆けつけているわけです。この先生たちの表情は笑顔で一杯にしてあります。安心しろ、君はがんばった、普通にできれば十分さ、少々の緊張は当たり前、自分なりにやって来い!そんなことなどを言いながら、握手をして送り出すのでしょう。生徒が遠ざかっていっても先生たちの笑顔は消えません。しかし、その笑みは少し性質を変えているように見えます。莞爾として微笑んでいた眼差しに、わずかに悲哀のようなものが浮かびます。それが自身の手を離れてしまった生徒たちを見送る眼差しに思います。

そうこうしているうち、中学受験も、高校受験もやがてたけなわとなっていきます。高校の推薦入試が、その中では最初になりますかね。先日、ある高校の推薦入試の朝の光景を、たまたま通りかかって目にすることができました。とある生徒、親御さんが校門前まで送ってきていましたが、校門に入ったあとは、生徒はまったく振り返らず、すたすた会場の中に消えていきました。親御さんはその姿をしばらくの間、門の外に立って見ておりました。子どもが親の手の届かない、自分の人生に分け入って行くような、そういうシーンなんですね。試験の意味がこの辺にあるような気がします。(了)

成人の日の話

今日は成人の日です。総務省の発表によると、今年の新成人は全国で122万人であるそうです。遥か昔、自分が成人した1982年には全国に156万人の新成人がいたようです。この年と比較すると34万人減っております。およそ自分の頃から2割減ったのだと思いきや、実はその間には、1983年から1994年までは途中丙午(ひのえうま)の1987年を除き、新成人は増加に転じていたのですね。いわゆる団塊ジュニアの時代を迎えていったことがわかります。
 
その一旦のピークが1994年で、この年、新成人は207万人を数えました。そして、この1994年こそが今年の新成人たちが生まれた年なんですね。今年の新成人が生まれてからの20年間で、20歳の人口は、なんと4割も減っていたのがわかります。少子化の時代と呼ばれてしまった所以を改めてここにみつけた思いです。ちなみに昨年は今年と同じ122万人で、この122万人がここ30年間での新成人数のボトムとなっています。この先しばらくは、1年で何十万人も減ることはなくなりますが、ただし微減がさらに続くため、ほどなく新成人は120万人を割っていくようです。

しかし、もちろんのこと122万人という数字はけして小さな数ではありません。他に122万人が存在するものを探してみますと、丁度、大分県の人口が120万人弱でした。また、アフリカにあるスワジランド王国という国がそれに近い人口を擁しています。120万人が集まれば一つの国家も成り立ちうるわけです。それなら“二十歳の王国”があってもおかしくないわけですね。日本には、お正月明けてすぐに、二十歳の王国ができるという観方はいかがですか。あながちでたらめでもない気がしてきます。国境を越えてこの王国に入ると、たちまち“大人”になる。例のピーター・パンでいう“ネバーランド”の反対の国です。確かに、誰もが一夜のうちに大人になってしまう王国ですよね。

この王国の王は一体誰になるのか?“希望”という名の王だと言う者もあり、“現実”という名の王という者もある、その他にもこの王の名には諸説あります。また、この国の“大人”という国民は一体どんな国民かについても諸説あります。

日本国憲法の三大権利と三大義務とは、(生存権・参政権・教育を受ける権利)と(勤労・納税・教育を受けさせる権利)でした。このうち参政権だけは、実は二十歳の王国の国民にならなければ手に入らないものとされています。政治に参加する権利というのは、一面、税金の使い道の決定に加わる権利とも言えますね。権利と義務の表裏となって切り離せない事柄でしょう。どうもこの王国の王は“政治”であると説く考え方が憲法にはあるのでしょうね。すると一夜にして政治に出会うことが成人の日の意味だとなる。

やはりそれもあるのでしょう。ただ、依然として二十歳の王国には未来を拓く“可能性”という王がいて欲しいとこいねがっている自分がいます。現実を超える可能性ですね。

この王国は、その人口の推移は多少あろうとも、いつの頃も変わらず、“可能性”という名の王のもとに、若者が集結するよう建国されたものだと思いたいですね。この忘れられない大雪となった平成25年の成人の日の風景を見ながら、改めてそのように思いました。(了)

巳年の話

あけましておめでどうございます。平成25年が始まりました。皆様のご活躍とご多幸をお祈り申し挙げます。

巳年は変化の年と云われるようです。悪く変わる場合も変化ですが、なんとかよい変化があるといいですね。世の中の多くの方は景気が今年こそはよくなればよいと願っておいでであろうと思います。もちろん私もその一人です。景気を浮揚させるためには、やはり従来と同じ対策で果たしてよいのだろうか?というのは誰もが持つ素朴な疑問ではないでしょうか?なにしろ“失われた10年”と云われていたのが、いつのまにか“失われた20年”と云われるようになりました。いくらなんでも長いです。まさに変化が必要なのではないでしょうか。巳年こそは変わってほしいですね。

教育の道はどうなのでしょう?何の脈絡もなく申し上げるようですが、実感というか、直感というのか、教育の道こそ変化が求められていると感じます。何をどうすればよいか?そこはまだはっきりしませんが、とにかく、従来のままでは、求めに十分応えることができる教育はできていかない予感ははっきりしています。それだけに焦りを感じる斯界の関係者はとても多いのではないかと思います。公教育も私教育も共に変わらなければならないでしょう。実にそのことだけがわかっています。

一つのヒントと思っていることは、生徒が自分で立てる力を本当に養う場を提供できているか?です。自分の力で立つということが曖昧なわけですが、どこに立つか、立てばよいかということが、変わってきていると思うのです。その昔、学生・生徒が立つといえば、身を立てる、すなわち立身出世ということでした。つまるところ、教育の場を通じて権力の座を競うという傾向が強かったのだと思います。故郷を離れて勉学することを、笈を負う、といいますが、故郷を離れて受ける教育は、どこか権力機構のエリートを目指す教育だったのだと思います。

エリートの教育を否定しているのではありません。これからもエリートを育てる教育も社会にとって必要であるとも思います。しかし、往時の立身出世を学問の成績だけで決める時代は既に終焉しているのではないでしょうか。その能力だけでは、人々は信頼を寄せきらなくなって久しいのでしょう。また、例えば科挙に受かれば一族郎党すべて潤った時代でもありますまい。とりわけ世界の水準を垣間見る今の時代にあっては、真のエリートという定義が変わっているのではないでしょうか。もうとっくに終わっているサクセスストーリーを生徒たちに示し続けているのでは、天井のあまりに低い窮屈な部屋に教室がなってしまうのではありますまいか。

世界の水準でみてどうか?このことをクリアーして生徒たちが自分の足でしっかり立っている。これがこれからの自立ではないか。そこがわかっているなら、そのように変わるべきです。公教育には公教育としての変化が、そして、私教育には私教育としての変化が、そろそろ本腰で求められるのでしょう。巳年の今年は、その変化の年になればよいし、また、そのように自らまず変わりたい。そう思います。(了)
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