2012年12月

大晦日の話

今日は2012年の大晦日です。教育の道にある人々にも等しく1年の区切りの日がやってきます。1年を振り返るとどんな思いが去来するでしょうか?よいことばかりがあった1年だと仰る方はどの位いらっしゃいますか?悲喜こもごもというのがやはり普通でしょう。どちらが多かったか、少なかったか、悲しいできごとが重なった年には悲しい1年と人は言うのでしょうし、嬉しいことがちょくちょくあれば、また人はそれをもって愉しい1年だったと言うのだと思います。そう思って自分も振り返ってみれば、確かにこの1年も悲喜こもごもの1年だったと言うよりありません。しかし、それでは中途半端な気もします。

大晦日というのはむしろ大いに後悔する日でよいのではないかとも思ったりします。あれもできず、これもできず、なぜやれなかったのだろう?どうして変わりばえがしないのだろう?ぼやぼやしてたら、また、あっという間に1年が経ってしまった。もっとしゃきしゃきやればよかった。こうなるとわかっていてなんで動けないのだろう。うじうじしてばかりで情けない。なんとも根気のないことだった。成功する人はここが違うのだ。口ばっかりではやっぱりたかが知れている。芽が出ない1年だったな。

あるいは、泣き言を言ってもよいことにしたらよいとも思います。どうしてもあいつだけは許せない。人をなんだと思っているんだ。どうしてあんなにエラそうにできるんだ?よくもそんなに自分の欲得ばかり言っていられるな。他の人間だっているんだぞ。手前ばかりがよければそれでいいのか?人の気持ちがわからないでそうするんだ。KY野郎と言われないか?また、同じ顔をみなきゃならないと思うと憂鬱だよ。もっと認めてくれたらどうだい?目を皿にしてよく見てくれよ。

とまぁ、色々悪態をついてよいのではないですかね。この年はこの日限りなんです。だから、後悔したり、泣き言言って悪態をつく最後の日とすればよい。そうやって洗い流してしまえばそれでよいのではないでしょうか。むしろ、そこでアクを出した方がよいのでは?出し切ってきれいにするということではないでしょうか?大晦日には大掃除でしょ。自分の中も大掃除をするときです。塵と埃と、ゴミと汚わいと出るのが当たり前の1年の納めだと思います。除夜の鐘が煩悩の数だけ108回鳴らされるのは、そうか、自分の掃除が終わったか?という合図ではないか。そして、きれいに片付けてから新しい年を迎えようや!そういう鐘の音だと思えてきました。(了)

クリスマスの話

早いもので第46回総選挙から1週間が経ちました。まだ1週間というのに、なにか随分前のことだったように感じます。それと同時にこの選挙は実にあっけなかったという思いを抱きますね。国を挙げての一大イベントのはずだと思っていましたが、今回はあまりヤマ場を感じさせない選挙だったといえるかもしれません。気の抜けたコーラを飲むような、芯をはずした緩みをこの選挙には正直感じました。盛り上がらなければ選挙ではない、というと不謹慎でしょうか?むしろ盛り上がらなければ年の瀬にふさわしくないと言ったほうがよいかもしれません。

盛り上がるといえば、全国高校駅伝ははずせません。師走の都大路を駆け抜ける、というキャッチがまことにふさわしい、この大会ではいつも溌剌とした高校生の快走を見ることができます。清新の気に満ち溢れた高校生たちのひたむきな走りは見る者を惹きつけてやみません。栄光に向かって走る青年の姿には、私たちの心を揺さぶるものがあります。特に駅伝競技はタスキを次の走者になんとしても渡すんだという使命感がランナーを緊張させ、そして勇気付け、なにか無私の心でもっと大きなものに向かって走っている姿がが伝わってきます。チームのために、仲間のためにという偽りのないミッションの意識が、彼らの表情に表れています。ゴールテープを切った瞬間に溢れ出る涙も、見る者の心に染み渡りますね。この高校駅伝が終わると本当に年の瀬だなと毎年思うのです。

そして23日は天皇誕生日でした。国民の祝日です。子供の頃は近所の家に黒と黄色のトラ柄の短いポールに日章旗がはためいて、祝日ムードを掻きたてていましたっけね。あれは田舎だったからなのか、あの時代だったからなのか、今はあまり見かけなくなりました。もちろんあの頃は天皇誕生日は4月29日でしたけれども。新しく12月23日が天皇誕生日になってから、もし23日が金曜日だったらと考える生徒たちが増えたのではないかと思います。23日が金曜であれば、24日、25日が土日となります。つまり23日が金曜日だったら冬休みが23日の天皇誕生日から始まるんですね。するとまた、1月1日が日曜日となってすなわち1月8日が日曜で、そして翌9日が成人の日のハッピーマンデーとなる。するとなんと冬休みが連続18日間となるわけです。そのせいか、23日の天皇誕生日はとてもお得な祝日だという印象がありますね。

そして24日のクリスマスイブ、25日のクリスマス。今度は言わずと知れたキリストの生誕の日です。誕生日続きでまことにおめでたい。多くの日本人の家庭では、この日に宗教性とは無縁のMerryな1日を、その形容通り陽気に愉しむ日となっていますね。子供たちはケーキにプレゼントに、この2日間はホクホクです。さらにこの後、お正月にお年玉が待っているのですが、クリスマスプレゼントとダブルの実入りには、子供の頃は底抜けにハッピー感があったものです。サンタクロースを信じていた頃はもちろん、その後も子供で通った年齢の間は、明るい気分で1年の終わりを迎えていました。これは今思ってもありがたかったですね。多少、通信簿が見栄えが悪くても、その程度のことはすぐに吹き飛んだものです。この12月のクリスマスの頃は、子供の頃の記憶とともに、永遠のポジティブシンキングがキープし続けられればよいですね。(了)

12月の話

あと2週間で平成24年は終わります。師走とは云いますが、もう10月からは全速力の駆け足で時が過ぎ去ろうとしている印象があります。そして11月などは、実に1年で一番1ヶ月が短いように感じるのは自分だけでしょうか?この感覚に近いのは、駅伝レースで自身の区間が最後残り数百メートルになると、猛然とスパートして次のランナーにタスキを渡そうとしますね。あの空気感に近いと思います。さしずめ12月の今は、まさにタスキを肩口からはずして、残り直線100メートルのフルスパートに突入した感じです。もうちょっとで倒れ込みながらタスキを渡すシーンがやってくるわけですね。
 
この時期は受験生にとっては、あっという間に受験直前がやってきたという思いにとらわれやすいですよね。あれ、もうあと1ヶ月だよ、まだこれこれが終わっていない、まいったな、みんなは終わってんのかね?などと、焦る気持ちに胸を締め付けられるような感覚を味わうこともあるでしょう。受験生には色々なタイプがもちろんいますが、概して不安と緊張感が高まる季節となっているわけです。私なども、もう随分むかしのこととなった今でも、大学受験のときのあの感覚は体の芯に残っているようで、ふっと甦ってくることがあります。あの空気がひりつくような中で不安と折り合いをつけながら、目をこすりこすり問題集に向かっていた12月の日々が頭を掠めることがあります。さすがに生々しさが消えて、幾分懐かしく思える部分もありますけれどもね。

あの緊張は役にたったのだろうか?その後の人生でどうだろう?確かにとある大学に転がり込むことができ、凡庸な学生生活を送ることはできました。しかし、苦労して手に入れた学生生活という感覚もなく、俗に言うぐうたら学生で終始しましたが、飛び切りの感動もなく、どん底の苦境もないというような学生生活であったとも思えます。その後に他人よりやや遅れて職業人生を送り始め、気がつくと教育の世界に身をおくようになり、いつもこの道にいてよいのか?という自問自答を繰り返しながら、少なくとも答えは明確にノーではない気がしつつ、ならば続けるとここまで辿り着いたという感想を持っています。あの追われるような12月はどのような意味があったのでしょうか?

“なんとか明日に繋がった”受験の合格者発表掲示板に自身の番号をみつけたときにそう思いました。ほっとはしましたね。そして実に一番嬉しかったのは発表会場の横の電話ボックスから郷里のお袋に電話したときです。“あったから。”そんな程度の報告をすると、びっくりするぐらい喜んでいる声が返ってきました。自分のための受験は、いつのまにか家族のための受験にもなっていたと思います。この感覚は時に重荷にも感じられる。しかし、このお袋への合格の報告は心を軽くしてくれたというより、心をきれいに洗ってくれたような感覚を当時の私に与えてくれた気がします。“なんとか明日に繋がった”の感覚は思った以上に深く、自分の中に刻まれているかもしれません。もちろん、学校が決まったくらいで、そして、そこを出たくらいで薔薇色の人生が始まることなどありません。絵になるほどドラマチックなこともない。しかし明日を感じることができたその一瞬を自分のものにできただけでも、あのひりつく12月は意味があったのだと思えてきます。(了)

教育とマーケティングの話

教育はビジネスです。それで食べて、生活をしている人間がいる限りビジネスと呼ぶのが正しいと思います。証券マンも教師も等しくビジネスマンです。要はどちらが高いも低いもない。当然です。当然であるが、中には違和感を持つ人もいるかもしれない。かくいう自分もどこかに“教員は聖職”という言葉に素直にうなずいていたい気分が残っています。しかしこの聖職の“聖”という字を“ひじり”と読むと、実に興味深いことが浮かび上がってきます。聖とはその昔、禅徒と呼ばれた僧侶のことを指すそうです。学問探求が専門の“学徒”に対し、寺の経済を支える僧侶が禅徒なのだそうだ。托鉢やら勧進やら行ったと書いてある資料がありました。また、寺で醸造した酒の販売を手がけた者たちを指すともあった。要はお坊さんを食べさせていた坊さん達なのですね。“聖”という字がとても近くなった気がします。聖職とはビジネスマンのことを指していたわけです。
 
さてそこで教育がビジネスだとすると、早い話、それは売れなければならない。つまりお金に換えなければなりません。私教育と云われる塾や予備校にあっては、このことはいつもの日常の話であり、むしろ当たり前の世界です。私教育にはこの点である程度の割り切りがある。では公教育の現場ではどうでしょうか?つまり学校ですね。ここで教育がビジネスだとうことが実に分かり難くなりますね。確かに学校では売り上げという言葉は使いません。むしろ『売った覚えはない』と云う者が出るかもしれない。売った覚えがなくても入ってくるお金というのは、これは神社や寺にお参りするときの賽銭と同じような扱いなんでしょうか。その前提はひょっとすると“身分・位”の違いなのかもしれませんね。神様や仏様は途方もなく偉いのですから。今、とても微妙な話をしていますが、つまり『学校の先生は偉いからお金がもらえる』となってきていたのかもしれない。ここなのです。分かり難いのは。

しかし、そうではないですね。先生だからといって偉くはないことが常識になって久しい。権力という観点に立つと、先生だから偉くはないというのは、先生の権力が微弱になって久しいと言い換えられると思います。そしてこれはおそらく事実でしょう。だから、公教育にあっても、教育を売るということをしっかり考えて行く必要があるのだと思います。自分で売るということですね。ここを曖昧にしてはいけない時代に入っているのではないでしょうか。何を売るべきか?そして何が売れるのか?そのことを問うことは大切です。また、そうなるといかに売るかということも出てきます。マーケティングが必要になるということでしょう。マーケティングは確かに教育にも必要です。もちろん公教育においてもです。しかし、一点だけ忘れてはならないことがあると思っています。それは『マーケティングは教育ではない』ということ。ここがごっちゃになると大ごとになる。この一点はけして忘れてはならない真実だと思っています。(了)
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