2012年07月

学生支援の話

エデュケーショナルバンクの教員志望者支援の提案をさせていただくために、大学法人を訪ねております。ここに来て首都圏のおよそ50キャンパスをお伺いしました。資料を携えてキャリアセンターや就職課をお訪ねするのですが、いずれのキャンパスにおきましても、例外なくとても丁寧にご対応いただきます。それだけでも随分ありがたい気持ちになるのですが、あまつさえ、ご担当から様々な現場情報を教えていただくことは、大変貴重なものばかりで、自分には次に畑に蒔くべき種を分けていただいたという思いになります。
 
就職先を探している学生さんは、それなりに不安を抱いてキャリアセンターなど学生支援セクションを訪れるのだと思います。“就職戦線は厳しい”という認識の下、ゼロから始める自身の就活にそうそう楽観的な見通しを持てるものではありません。企業巡りでは歩けども歩けどもなかなか縁が繋がらない、そう思っている学生さんの方が圧倒的に多いはずです。悩みも増えこそすれ、減ることはないでしょう。そんな思いで学生さんが扉をくぐるのが学生支援セクションなのだと思います。
 
学生支援セクションのスタッフの方々が、まずとても受容的に迎えてくださるのは、日々の学生さんとの対応に欠かせないプロフェッショナルとしてのスタンスがあるからだと感じます。私は学生ではもちろんありませんが、学生支援セクションを訪問して最初に感じるのは、なんといっても“安心感”です。安心し過ぎてつい調子に乗ってこちらのことばかりを話してしまっていることもしばしばあります。ご担当がとても聞き上手だからですが、このときは支援センターを訪れる学生諸君と私はほとんど変わらない心境でお話をさせていただいているだと思います。
 
先日訪問したある大学のキャリアセンターで伺ったお話にとても心を動かされました。ご担当様と30分ほど面会の時間を頂いた時のことです。なかなか就職活動をしない学生さんがいて、その学生さんとカウンセリングをしたときに、『親から就職しなくていいと言われているから。』と学生さんは就職活動をしない理由を言ったそうです。するとこちらのご担当様は保護者の方に直接ご自身で連絡をされて、面談のアポイントをとられたそうです。そして、子供に自分たちのような苦労をさせたくない、と言われる保護者さんに、『そういった苦労こそが子供さんに必要なのです。』と説得されたというのです。
 
とても手厚い対応に私は伺っていて驚きました。その学生さんは、縁あってやがて教職についたのだとか。そして卒業して1ヶ月後、その学生の保護者からご担当に直接電話があり、その学生が初めての給料で親御さんにプレゼントをしてくれてとても嬉しいと。担当様には感謝に堪えないと、そのように報告があったそうです。そのときこのご担当様は親御さんにこう伝えたと。初めての給料の2割は仕事の充実感が詰まっている。しかし、残りの8割は本人なりのきつかったこと、つらかったこと、大変だったことが詰まっている。だからこそ貴重なのではないでしょうか、と。職業意識を超えた篤い方がいらっしゃるものです。その学生さんは誠に恵まれていたのですね。(了)

思い出す話

学生の頃の教職課程の授業のことです。1980年代の初めの頃ですから、およそ30年前の話になります。いまだに時々思い出す先生の授業がありました。“教育原理”という授業です。それほど勉強熱心とは言えない学生でしたから、教職課程が夕方から始まることを不満に思っており、けして上機嫌で授業を受けていたわけではありません。ところがそのような不熱心な学生であった私が、この教育原理の授業には結局皆勤賞だったと思います。なぜか、休まなかったですね。

授業ではギリシャのソクラテスについて先生が語ってくださったと思います。“・・・と思います。“などと他人事のように申し上げているのは、先生には悪いのですが、授業の細かな内容は今となってはよく覚えていないのです。休まず受講したと言いながら、一体何をしに行っていたのやら、内容はさっぱりです。しかし、これは断じて事実なのですが、申し上げた通り時々このO教授の表情とともに先生の声とその言葉を思い出すことがあります。自分でもとても不思議な気がします。

さて、当時の学生だった私は、今思い起こすととても生意気だったと思います。なにか斜めに見るような若僧でした。どちらかというと扱い難い学生だったのだと思います。思い出すと冷や汗が出てきます。“懸命にやる”というのがどことなく恥ずかしく、どちらかというと、すぐに茶化しを入れるようなタイプでした。このO教授の教育原理の時も、もちろんそのように斜めに構えて授業を受けていたはずです。毒を含んだ茶化しの餌食にするはずだったのです。ところがO教授に私は意表をつかれたのですね。こちらから突き放すつもりだったのに、反対に引きずられるようになってしまったわけです。

あれは意表というほかない。O教授は授業の度にいつも、余談のようにして同じ言葉を繰り返しました。その言葉を最初に聞いた時、私は唖然としたのです。教授はこう言いました。『・・・私はですね、毎日、毎日、日に日に自分のカミさんが好きになるんですね!』というのです。当時二十歳そこそこの私からは、O教授はもちろん立派な大人です。この言葉を聞いた時、生意気盛りの私は『おい、おい、勘弁してくれよ。いい歳したおじさんが毎日カミさんが好きになるだと。よくも臆面もなく人前で言えるよな。』そう思っていました。へその辺りがもぞもぞする感覚があったのを覚えています。

ところが、授業ごとにこの言葉を何度か聞いているうちに、へそがもぞもぞするのは消えていきました。ただ、少々気恥ずかしいのは相変わらずです。やがて“ひょっとしてこの先生は本当にそう思っているぞ”とわかってきました。嘘ではないようなのです。なんと言いますか、聞いているとそれが伝わるわけですね。人は感じ取るのだと思います。“ちょっと変わっている人なんじゃないか?”とO教授のことをしばらく思っていたのですから、見事にひっくり返されたわけです。ひっくり返されてしまったせいか、その後もこの授業だけは皆勤賞であり続けました。しまいには『私はですね、毎日、毎日、日増しに・・・』というくだりを聞きたくなっていたのだと思います。

あれから随分時が経ち、自分にも結婚式のスピーチを依頼されることが何度かありました。何を言えばよいか、迷いつつ、結局スピーチには必ずこのO教授の言葉を引用したものでした。『昔学生時代に、当時名物教授と言われていた教育学部のO教授に教職の授業を習っておりました。この先生がまた一風変わってましてね・・・・・』と続けるわけです。結婚式のスピーチにはうってつけの一つ話と思っていました。

O教授の試験がどんな問題だったか?課題の図書があったのか、なかったのか?こういった細部は残っておりません。そして当時のノートも残念ながら手元には残っていませんので、この教育原理という講座で何を取扱ったかは再現できません。しかし、この余談のように合間に話された“毎日、毎日、日増しに”の話は、結婚式でスピーチでも使いましたし、また、再現する意図があるわけではないのに、何かの拍子に教授の顔が現れ、この言葉をリフレインしていくのです。

学生の頃にはわかりませんでしたが、ある時、はたと気がついたことがあります。『もしかするとO教授は、これから教員になるかもしれない学生をつかまえて、教員の魂の原点なんぞを伝えたかったのかもしれないな。学生達に、教授が言っていた“カミさん”を“生徒”に置き変えてみなさい、ということだったんじゃないかな。』そう思えたのです。『・・・私はですね、毎日、毎日、日増しに自分の生徒のことが好きになるんですよ。昨日より今日、そして今日よりおそらく明日の方が、より生徒が好きになるのですね。・・・』。教員の魂の在りかについて明確になるように思います。O教授のあの言葉こそは、第一級の教育原理であったのだと今でははっきり思えます。(了)

乗数効果の話(2)

先週、授業空間に関わる講習会について、受講生の方から頂いたレポートの抜粋をブログ本文に載せさせてもらったところ、いつも以上に反響が頂けました。寄せられた声は概ね次のように集約できると思いました。

「何気なくやり過ごしていたり、曖昧にしていたことに改めて気付いた。」
この声が頂いた反響の中では一番多かったものです。講習会で取り上げた“授業は空間の作り方が肝心だ”といったテーマ自体は、実はみなさんが元々理解していることなのです。

ただ、わかっているけれども、いつも視界に入っているというわけではない。普段は記憶の底に眠ってしまっているかもしれない。言われてはじめて思い出すことが日常たくさんありますが、授業の空間のことなども、きっかけがなければ思い出すことが出来なかったかもしれません。

思い出すということも一つの気付きではないでしょうか。また、今まで感じてはいたけれども、言葉にして説明できなかったことに言葉が見つかったときも気付きと呼べるのだと考えます。意識にのぼった瞬間が気付きなのです。
気付きは、当たり前ですが、気付く前と比べたら革命的な変化が起こっています。“目からうろこが落ちる”というように、うろこが落ちて別な細胞に生まれ変わっているわけです。生物の代謝で糖やたんぱく質を分解してエネルギーに変える過程を異化というと習いました。気付きは自身の無意識を分解してエネルギーを産み出す異化のプロセスかもしれません。それは、今までと異なる自分へと変わるエネルギーなのだと思います。気付いた瞬間には、実は既に新しく生まれ変わる初めの一歩が大きく踏み出されているのではないでしょうか。
さて、くだんの講習では、授業の空間は、生徒を承認する一つ一つのやり取りが3次元の空間を創り上げる、という話とともに、もう一つ講師の機能についての話も進めさせてもらいました。

端的に言いますと、講師は授業の空間を演出するディレクターのような役目だと、いくつかの角度からお伝えしたつもりです。その中で“教師の五者”の“役者たれ”とは、最良のシナリオを演じ切る者と申し上げてみましたが、ほんとのところ演出家でもあり出演者そのものでもあるのが講師の姿なのだと思います。

またパフォーマンスの効果についてもいくつか触れています。例えばメラビアンの法則を取り上げ、言葉よりも声色や表情が強いメッセージを持ちうることを取り上げました。言葉以外のノンバーバルコミュニケーションの重要性は意外に盲点になりやすい。なぜなら、私たちの仕事そのものは様々概念を生徒にわかりやすく伝えることを本分としているからです。

しかし、現実に生徒の目には、心には何が響いているのか、見つめ直すことは有意義だと思っております。
生徒との授業での関わりを通じて、では講師自身へは何が刻まれるのか?
このことも実は相当にお伝えしたいことがあります。講習会を通じては持ち時間の都合もあり、その一部をご案内するに留まりました。

講師は生徒に動いてもらう力を持たなくてはなりません。人が動く力というのは並大抵の力ではありません。しかし、それがなければ実は講師はできないとうことかもしれません。人に動いてもらう力をマネジメント力というのだと思います。この力が講師に刻み込まれる必要があります。

そして、もう一つは、講師の実感には、まさに“これでよい”ということがないということ。しかも因果なことに、まだ足りないと感じてこそ、逆にまっとうな仕事になっているということ。この“まだ足りない”の声は正直に嫌な声、きつい声です。しかし、それが聞こえ続けて、絶えず刻み込まれてこそ、教育の道にあるという証明がなされるのだと思わざるを得ません。
最後に前回に続いて、受講生の方のレポートの一部抜粋を以下にご紹介します。乗数効果というのは確かにあると思いました。
 
〇『・・メラビアンの法則はとても面白い法則だと思った。たとえば恋人と喧嘩してメールで仲直りを目指すより電話、電話よりも直接会って身振り手振り自分の意図を伝えた方がはるかに効果的なのは目に見えて明らかである。もちろん授業にも応用できることであり身振り手振りを加えて印象付けることでさらに良い授業にできると思った。(Rさん)』
〇『・・仕事を通して身につく「マネジメント力」は、まさに先に終了したばかりの就職活動で大きく生かされたと実感しています。具体的には、業務を通して身についた、プレゼンテーション力をはじめとする有形無形の力が、面接での立ち振る舞いをはじめ、就職活動(=社会人の仲間入りへの儀式)のなかで無意識のうちに生かされていたということです。(KNさん)』
〇・・『「教える仕事に就くものはいつも不足の声が聞こえる、100はない。」のことばに、いつも不足を感じている立場からはホッとすると同時に、常に生徒の需要を察知して自己研鑽を行う必要性を感じました。(Sさん)』
〇・・『自己実現は生徒だけでなく講師側も行えることが望ましいです。講師の自己実現は生徒の自己実現に直結するのではないかと思います。ですので、私自身も勉強に励み生徒の手本となるように努めていくことで、自己実現しようと思います。(KRさん)』
(了)

乗数効果の話

週末、とある私鉄電車の夜の9時すぎに、向かいの席にいた2人連れの青年達の話の断片が聞こえてきました。

『・・なんとしても1次は通らないと。学校の皆さんに申し訳ない、というか顔向けできませんよ・・。』と後輩と思われる方が、先輩と思われる方に咳き込むように話しています。

『過去問はやったの?』と先輩が聞き返すと『はい、やりました。ちょっと教職教養がいまひとつで・・』なるほど!これでわかりました。どうやら後輩の方が7月8日実施の公立教員採用選考1次試験を受験するという話のようです。今はいずれかの学校で非常勤講師かなにかをしているらしい。その帰りがけ、教員仲間の先輩に日曜日の本番試験のことを話しているのでした。

試験前の不安と高揚を伝える率直さが向かいの私にも伝わってきて、どなたかはもちろん知りませんが、その懸命さに好感を持ちました。本当に受かりたいのだな、と気持ちがよくわかりました。私はすぐ次の駅で電車を降りましたが、降り際に心の中で“がんばれ!”と声のない声援を送らせてもらいました。いよいよ今年の教員採用戦線が火蓋を切って落とされたのですね。教員志望者の皆さんには、また熱い季節が始まったわけです。

教育の道は強く求めてこそだと思います。辿り着くべき職業だと思うところもあります。やっとなれた、という道のりがむしろ必要なのかもしれません。なんといっても自分を作り込んでゆくことが求められる仕事です。作り込みに時に痛みも伴うことがある世界です。時間がかかるものもあります。これらをすべてクリアーして辿り着くステージが教室なのだと思います。だから教室は、教育の道にある者にとってまぶしく見えるのが本当なんじゃないでしょうか。
 
さて、その作り込みは結局自分自身でやるしかないのですが、いざかかる前に一つ大事なチェックが必要だと思います。結論からそれは自分の目の位置です。自分の目線がどこに向いているかということ。どうしても見ている方に進んで行くのが人です。目の位置は究極の重要さがあると思います。私たちが講習会を開催する意図の一つはここにあります。目線をどこに向けるか研究してもらうきっかけになれば申し分ないと思っています。

先だっての講習では“授業の空間”についてどのように捉えたらよいか、をテーマに2時間ばかりの講座を開きました。日曜日にもかかわらず受講に集まって頂いた方々に、このブログでも取り上げております空間の観方についていくつかの角度で話をさせてもらいました。そしてお願いとして簡単なレポートを後で提出して頂くよう伝えました。
 
実はレポート読んで感心してしまったのです。私がお伝えしたわずかのことが、受講生のみなさんの中を駆け巡ると、何倍もの強い意味を有するようになって、受講生の皆さんの目線をどっしりと落ち着いたものに変えていることがわかりました。なんでもマクロ経済学の用語で、たとえば1億円の公共投資がまわりまわって5億円の経済効果になるなんていうのを乗数効果と呼ぶと聞いたことがあります。まさに読んでいて乗数効果を感じました。紙数に限りがあるのでほんの一部抜粋ですが以下にご紹介させて頂きたいと思います。
 
〇『私自身、6月8日に公立中学校の教育実習を終えたばかりで、また、幸運なことに、教師になりたい気持ちがさらに高まっております。・・(中略)この承認が3次元の授業を構成する要素とは、目から鱗です。私が教壇実習で、よく注意されたのが「黒板と会話している」という事でした。・・』

〇『・・(中略)今回の研修で、「『進度と時間』については誰もが予習の段階で気にするがそれだけでは平面にすぎない。生徒とのやり取りを通して、生徒を承認することで空間になる」というお話がありました。そのことを伺ったときに、今私が悩んでいることに対する答えの一つが見えたような気がしました。・・』

〇 『・・(中略)授業では、私は特に『承認欲求を満たす空間』を意識していきたいと思います。人数が多くても、先生は自分のことを気にかけてくれているという小さな自己肯定感こそが、勉強する意欲の源泉の一つになり、大きな安心感になり得ると思うからです。・・』

〇 『・・(中略)私らしい授業を集団授業の研修でもやろうとしました。そこで、初めて気付いたのが、私らしい授業の不存在でした。いざ、集団授業の研修を行ってみると、生徒がいないと私らしい授業を行うことができないことに気付かされました。・・』

〇 『・・(中略)思えば、これまでの自分の授業は自身の考え方や思想を生徒に押し付けているだけの授業展開ではなかったのかと思うところがあります。これらを改善し、生徒が心躍るような、毎授業を楽しみにしてくれるような空間を作っていかねばならないと思います。・・』

〇 『・・(中略)わかりやすく、面白い話をする技術は言うまでもなく、その日その日の生徒一人ひとりの表情や態度を良く見ること、言葉以外でのコミュニケーション(表情や目線、身振りなど)を意識することで、生徒が主体的に学ぶ空間をつくっていきたいです。』

〇 『・・(中略)ではどうやって生徒を受容し、承認欲求を満たしていくか私なりに考えたところ、生徒の話すこと1つ1つに、丁寧になおかつ笑顔で耳を傾けることであると考えました。・・』

いかがでしょうか!この乗数効果は最初の有効需要の何倍になるかわからないくらいです。これらがなぜ起こるのかというと、残念ながらその日の講義の巧拙によるのではありません。受講者の方が“教育の道を強く求めている”からだとはっきり思います。(了)

マッチ売りの少女の話

「マッチはいかが?」という少女の台詞でおなじみのアンデルセン作『マッチ売りの少女』を取り上げてみたいと思います。

あまりにも有名なお話ですが、この童話が上梓されたのは1848年、今からおよそ160年前です。まったく古びない話であり、小さな子どもを持つお母さんや保育園、幼稚園の先生達が読み聞かせのため今も手にとっている物語ではないでしょうか。短いお話ですが鮮烈な印象を子ども達の心に残し続けている作品なのだと思います。
 
『マッチ売りの少女』の物語の圧巻の場面といえば、やはり少女がマッチを擦るシーンです。

少女が寒くて暖をとろうとマッチをつけると“まるでストーブの前に座っているように”感じ、そしてまた1本つけると“まるで部屋の中にいるようで、テーブルのガチョウの丸焼きが少女の方にやってくるように”感じます。次の1本では“まるで大きなクリスマスツリーの下にいるように”感じる。しかしそれらに少女が手を差し伸べようとすると、マッチの火は消え、なに一つ手に届きません。マッチの火が灯っている間その世界は確かに在って、消えると厳しい現実が戻ってくる。このことになんともはかなさを感じる場面です。
 
ところが最後にどんでん返しが待っています。

少女が最後にマッチを擦るとおばあさんが現れ、少女はおばあさんとはどうしても別れたくないと、一束のマッチをすべて燃やし尽くしてしまいます。そしてそのまま、おばあさんと一緒に二人で空高く昇っていきます。
翌朝、少女は微笑むような表情を浮かべながら、壁にもたれてなきがらとなっていました。

そうです。今まですべてマッチが消えれば、マッチが映し出した世界とは異なる現実の世界が現れました。しかし、このときはマッチが消えても、マッチの世界でおばあさんと少女が天に昇ったままに、現実の世界にも少女はいなくなっていたのです。これは、大いにどんでん返しです。
 
このどんでん返しは、非常に大きな効果を物語に与えています。少女が本当にいなくなってしまって、マッチの炎が呼び寄せただけだった数々の世界が、かえって実在感を強めるという逆説が起きるのです。角度を変えて申し上げますと、マッチが映した世界と、リアルな現実の世界の分かれ目が消えたということです。そして繋がったということだと思います。

このときに、マッチ売りの少女の存在が、マッチの世界と現実の世界を橋渡ししたと言えるのではないでしょうか。
 
私は申し上げてきましたように、この物語でアンデルセンがマッチ売りの少女に二つの空間を繋がせていると思います。今風に言えばこれはバーチャル空間とリアル空間の関係を提示しようとしているのではないでしょうか。

この物語から感じる力は、バーチャルをリアルに変えた力の存在です。マッチを道具に使って(マッチは当時のヨーロッパで急速に普及、隣国スウェーデンは当時マッチの生産世界1位)、その炎がフラッシュする画像世界(当時、銀板写真による肖像写真がヨーロッパで大ブーム)をリアルな空間にしようとしたのではないか。私が勝手に勘ぐっているだけではありますが、かなり実験的なテーマの作品だったのではないでしょうか。

なきがらとなった少女によって、バーチャルは完全にリアルに同化されました。アンデルセンはこの作品でバーチャルをリアルに変えてみせたわけだと思います。
 
さて私たちの授業の空間では、授業で取り上げる教材は、バーチャルなのか、リアルなのか一見わからなくなるときがあります。ともかく生徒達の現実の世界から随分離れた世界の話を取り上げている点では、生徒の目から見ればやはりバーチャルに属するものかもしれません。

しかし『マッチ売りの少女』の中でマッチの世界が限りなくリアリティをもったとき、それはリアルになりました。リアルになる過程では少女の存在が媒介者になっていましたね。同じではないでしょうか。いくら真理でも、法則でも、生徒にはバーチャルです。

しかし、それを生徒達(=教室空間)に媒介する者があれば、それは生徒達の現実に変わるのだと思います。その意味で、教師は授業において、教材の作り出す空間と教室の空間を媒介するまさにメディアなのではないでしょうか。なきがらにまでなる必要はまったくないのですけれども。(了)
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